史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

特定秘密法の成立と日本の民主主義を信頼すること

特定秘密法が成立したのを受けて、時事問題を扱うブログをやめた人が出ているのだそうだ。どういうことかと思う。河野太郎さんも書いているように、この法律で取り締まる対象になるのは特定秘密に関わる上でその資格審査を受けた人(6万人くらい)だけのはずだ。マスコミでかなり誇大広告が出ているし、拡大解釈を危ぶむ人がいるけれども、私は今の日本政府はそこまで酷くない、というかそんなことをしても自分たち自身に不利益が降りかかってくるだけだから、そんなことはしないと思う。

 

そういう記事を読んで、私は時事ブログをやめる人が増えるなら、私は始めようかな、とさえ思った。正直言って、きちんと記事を丹念に読み、裏を取りながら内容をきちんと把握してそれに対する自分の意見を言うというところまでは、やり切れないと思う。問題によってはそういうこともあるかもしれないが。

 

ただ、この記事にはある種の危機感と疑問、というか憤りに近いものを感じた。そのことはツイッターでも書いたのだが、この際ブログでも書いておこうと思う。

 

特定秘密法に対して彼らが感じているのは、民主主義の危機ということだろう。それなら、時事ブログを書いているような見識のある人であるならば、民主主義を守るためになおさら発言すべき時ではないだろうか。

 

実際に処罰を受けたとか、当局から警告を受けたというならまだわかるけれども、まだ法律が施行もされていない段階でブログをやめるというのはもう日本の民主主義に見切りをつけ、発言を放棄したというふうに見えてしまう。

 

正直言って私は、みんなもっと日本の民主主義を信頼したらどうかなと思う。

 

民主主義というのはもちろん、国民一人一人が不断の努力で維持していくべきものだ、ということは言うまでもなさすぎるけど憲法に書いてある。「日本の民主主義を信頼する」ということは、「自分たち自身を信頼する」ということなのだ。それをなぜ、民主主義を維持するということを放棄するようなことを簡単にするのだろうか。

 

残念ながら日本には、自分たち自身の民主主義的な力を信じられない人が多すぎる気がする。そういう人たちは自分たち自身を信頼できないから日本の民主主義に危惧を抱いているのではないかと思う。

 

自分たち自身が日本の民主主義を信頼しなければ、日本の民主主義がこれ以上発達することはない。それではなぜ、今まで民主主義が維持されてきたのか。それは過去の人たちが日本的民主主義のあるべき姿を求め、みなそれぞれの形ながら日本にあるべき民主主義の姿を思い浮かべて、そういう国として日本をつくってきたからだろう。

 

当然、これからもそういうふうにして、日本的な民主主義をつくっていくべきなのだ。それがどんな形になるのかはわからない。イギリスの民主主義とフランスの民主主義とアメリカの民主主義と、みな形が違うように、日本の民主主義もまた自分たちで作っていくしかない。今に本がそういう国であるのは、そういう意味では過去の遺産のおかげなのだ。もし危機が訪れたというならば、自分たち自身が守らなければ誰も守ってくれる人はいない。それが民主主義というものであるはずだ。誰かが守ってくれるはず、という発想は過去の遺産にあぐらをかきすぎだと思う。

 

しかし、私自身はそんなに現在の状態を危惧はしていない。民意を反映するのが民主主義であるならば、日本の民主主義は明らかに機能している。古い民主主義観念の持ち主からは右寄りに過ぎるように見えるかもしれないが、右だろうと左だろうと、民主主義は民主主義だ。アメリカで銃器が規制されなかろうと、国民皆保険に反発が強かろうと、それで民主主義が機能していないと思う人はいないだろう。日本人にとって理解しがたいことであっても、彼らにとっては正当性がある、そういう選択を彼らはしているのだ。

 

ネット調査で首相の靖国参拝支持が8割を超えるのも、尖閣に対する毅然たる姿勢が支持されるのも、日本人の現在の民意の表れだ。それが戦後教育の呪いからの覚醒なのか、あるいは右派による集団洗脳なのか、さまざまなある種の陰謀史観があるけれども、それ以前に民意というものが政治の方向性を決めるのが民主主義だという大前提がある。

 

左派的な歴史観を持つ人たちが自分たちの意見だけが民主主義だと主張するのは、それはどうかと思う。軍備を持てという意見が反民主主義的だという主張は間違っている。日本以外に軍隊を持っていない民主主義国はない。軍備を増強せよという主張も、もちろん十分に民主主義的なのだ。

 

私は、今の若い人たちの言動をいろいろ見てきて、われわれの世代よりもずっと自由に、ずっと幅広い視点でものを見ているところがあると思う。もちろん、私たちが彼らよりもっているものは「経験」であるけれども、それは過去のものであってそれだけで未来を生きられるわけではない。

 

彼らには、私たち以上に自由にものをいうことは空気のように当たり前のことだ。そして、戦後主義的な歴史観がどこかおかしい、どこかいびつなものを含んでいることを、そういう常識を疑うことができるクリティカルな視点を持っている。

 

そのような、一度意見を言う自由を手に入れた人たちが、なぜそれを簡単に放棄する気になると思うのか、私には理解できない。

 

「俺たちは皆、生まれた時から自由だ。それを拒むものがどんなに強くても関係ない。世界がどんなに残酷だろうと関係ない。」

 

そう叫ぶ「進撃の巨人」がなぜこれだけ若い人たちに爆発的に支持されているのか。人の目指すべき本質の一つが自由であることが、私たちよりももっとずっと具体的に体の中に入っていると思う。

 

少なくとも私は自分たちを、日本の若い人たちを、日本の民主主義を、日本の未来を、信頼する。信頼したいし、信頼できると思う。

 

フランス革命以来の民主主義の目標は、リベルテ(自由)、エガリテ(平等)、フラテルニテだ。フラテルニテは博愛と訳したり、友愛と訳したり、同胞愛と訳したりする。

 

それは、同じ国をつくっていこうとする人たちを信頼し、ともに前に進んでいこうということではないだろうか。

 

自分たち自身を信頼し、若い人たちを信頼し、民主主義を信頼することこそが民主主義そのものなのではないかと私は思う。そしてそれに代わる十分適当な思想や制度がない以上、この思想、ないしは制度は守られていくべきだと思う。