「現代ニッポン論壇事情」「良いテロリストのための教科書」「経済学という教養」など
「歴史の終わり」は来なそうだ:トランプ氏の大統領就任
トランプ氏がアメリカ大統領に就任して、リベラル派を中心に強い反発を見せている人が多く見られる。また、そうでない人々も、彼の粗暴な言動の側面に注目して、一様に戸惑っているように思える。歓迎している人は少なく、また冷静に分析が出来ている人はさらに少ないようだ。しかし逆に、今トランプ氏をある基準で評価、あるいは冷静に客観的に観察しようとしてその分析を公表している人たちの言葉には、かなり読むべきものがあるように思う。
トランプ氏に強い反発を表明している人々は、基本的にリベラルな人が多い。あるいは、スケープゴートにされているメキシコの人々もいるだろうが、それはまあ当然のことだろう。しかしリベラルな人たちの反発には、一面冷たい、批判的な空気もあるように見える。それは、日本において民主党政権への信用が地に落ちたこととも共通する部分もあるが、リベラルの持つ教条主義的な部分への反発が特に強いのではなないかと思う。
個人的なことを言えば、私はトランプ氏のような人物が出て来てアメリカという現代世界の権力構造の中心とも言えるアメリカ大統領の地位に就くなどと言う、世界の今までの公式的な歴史の流れみたいなことからすれば番狂わせのようなことが起こって、私は正直安心しているところがあるのだ。
それは、世界はフランシス・フクヤマが言うような「歴史の終わり」、「近代的」で「民主的」で何もかも決まりきった死んだような世界になることはなくて、何というか世界はもっと「自由」なんだなと感じたからだ。死ぬほど退屈で歴史への反発さえ許されない、そんな世界ではなく、もっとどうなるかわからない可能性に満ちた、この世界はまだ生きるに値するなと思ったわけだ。
確かにトランプのような本質と非本質、知性と野蛮、戦略と直観がないまぜになった人物が世界で最も強い権力を握ったことに、軽い戦慄を覚えないわけではない。先が見えないからだ。それを支持する人たちも、一体どこまで見通して彼を支持しているのか、そんなに長い射程で考えている人はそんなに多くないように思う。これからいったい何が起こるのか想像しにくい、世界はそういう段階に入ったと言うべきだろう。
そう言う意味で、世界は歪(いびつ)だ。しかしだからこそ美しく、新しく、力を持っていて、生命に満ちているとも言えるのではないか。
ヒトラーが西欧文明の中で徒花を咲かせて以来、インテリゲンチャを中心に、そうした予測不可能な人物に対する警戒感はとても高まったように思う。しかしトランプはそういう予測を拒絶するような人物で、その点ではアメリカ史においてアンドルー・ジャクソンやロナルド・レーガンの存在と似ている。
個人的にいえば、私はニーチェとかベルクソンみたいな世界観の方が、予定調和的な世界観より好ましい。この世界がフクヤマ的な予定調和の世界だとしたら、人間として生きる意味があまり感じられない。しかしその世界が均整に向かって行く、その対称性の破れみたいなことが現実世界に起きて、ちょっとわくわくしている感じがある。
私はフクヤマの「歴史の終わり」という考え方を聞いた時、「ラプラスの魔」に匹敵するようなすごくいやな気持ちになった。ちなみに「ラプラスの魔」とは啓蒙主義が窮まった19世紀始めの科学者・ピエール・シモン・ラプラスが言ったことで、自著によれば彼はこう言っている。
「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」(Wikipedia・「ラプラスの悪魔」の項より引用)
これはニュートン力学で全てがとらえられるという、不確定性原理以降の現代人に取っては否定可能な言説ではあるが、当時の科学では否定しがたい悪魔のような決定論であって、だからこそ「神」になぞらえることも可能なその「知性」を、人は「魔」と呼んだのだろうと思う。
フクヤマの「歴史の終わり」の概念は、こうした恐るべき決定論と同じような拘束性を持って語りかけて来たように思われる。世界の歴史の流れは、フクヤマのいう「歴史の終わり」に向かって、そしてその中心たる英米のメインストリーム、あからさまにいえば権力層にとって有利な形で、収束して行くしかないように見えていた。ないしは、思い込まされていた、ように思う。
だからこそブレグジットが起こったりトランプが表舞台に出て来たりして歴史はちっとも終わらなそうだという雰囲気になって来ると、その決定論に息のつまる思いをしていた人たちは、バカヤロウざま見ろ的な痛快さを感じることになったのだと思う。
とはいえトランプという人自体を支持する、と言う気持ちがあるわけではない。トランプの出現に怒りを爆発させたり、動揺したり、逆に追随したりしたいとは思わない。しかし、彼の言説や行動がメインストリームの盲点を突きまくりなところは可笑しくてしかたがない。その中には私が気づいていなかったところ、つまり私にとっても盲点だったところがいくつもあって、つまり、勉強になるなあと思う。
私にとって、トランプを評価すべき点は、まずは彼がオルタナティブであることだと思う。それは彼が世界の中心でアメリカ愛を叫んだところで変わることではない。王様は裸だと叫ぶ子どもと同じで、当分の間世界を引っ掻き回してくれるだろう。まあ4年くらいでアメリカ人も飽きると思うけど。
翻って日本を見れば、いつまでもアメリカについて行けばいい的な腐った魚みたいなことを言ってる保守の言説に無効性が突きつけてるのも可笑しいし、定規でスカートの丈を測る生活指導教師的なポリティカルコレクト的左翼の神経を逆撫でしてるところも可笑しい。トランプは超一流のトリックスターであることだけは間違いないだろう。
トランプが厳粛な顔して署名したりしてる後ろで息子が赤ちゃんにいないないバアしてる動画が本当にこの人の本質を表してて超可笑しい。
https://twitter.com/ABC/status/822620373338521601/video/1
一つだけいえば、彼の政策の中心は保護主義であって、それによる産業と雇用の維持こそが彼の主張の中心だ。市場開放規制緩和原理主義の終わりと言うべきで、それに関しては日本でも振り返るべき部分があるのではないかと思う。
何がどこに行くのか、わかっている人は誰もいない。
今年、2016年ももう残りわずかになって来た。個人的には、今年はとても大変な年で、来年になって運の流れが少しは変わり、いい方向に流れてくれると良いと思うのだが、世界的に見ても色々な大きな流れが変わる節目のような出来事がいろいろ起こったように思う。
アメリカのトランプ大統領の当選、イギリスのEU離脱、シリア内戦の激化、トルコのクーデター未遂からエルドアン大統領の独裁強化など。日本でも熊本地震、年末には糸魚川大火もあった。フィリピンでもドゥテルテ大統領の就任、中国海軍の西太平洋進出など、日本周辺でも予断を許さない、評価が難しい出来事がいくつもあり、天皇陛下が譲位の意志を示され、また三笠宮殿下が亡くなるなど、日本の深奥部においても大きな変化を予感させるものが起こったと思う。
映画でいえば「シン・ゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」と、今年は珍しく3本も見たし、マンガでは「ハイキュー!」にかなりはまった。夏には「ポケモンGO」が大流行したし、ある種の回帰的な動きもあったのかもしれないと思う。
グローバル的な、またポリティカルコレクト的な、大きく言ってのインタナショナリズム、左翼リベラリズム的な動きに強くブレーキがかけられ、孤立主義的、一国主義的な動きが強くなって来て、また人文学を中心とした学問に対する風当たりの強さ、実務的でない基礎学的な方向性への資金が絞られて来て、80年代に20代を送った自分たちからするとその頃正しかった、また勢いがあった分野が全て否定されつつある感じがするのが、われわれの世代に取っての生き辛さのようなものにつながっているのではないかという気がする。
何が正しいとか正しくないかというのは時の勢いのようなものによる部分が多いというのは改めていうまでもないのだが、どこまでが時の勢いによる変化なのか、どこまでが不易流行の部分なのかという感触が、思ったより大きな部分が変わってしまったのだなと思えて、戦中から戦後にかけて生きた人たちも同じような感触を持ったのだろうと思う。
何をどういう方向に動かせばいいのか、よくわからない。もとより、そのために今何をすればいいのかも。わからないまま年が変わり、月日は動いて行こうとしている。何がどこに行くのか、本当にわかっている人は誰もいないだろうけど。
自由な気持ちで本棚を作り直してみる
本棚を整理していると、いろいろな本が出てきて、その本を買った時にどんなことを考えていたかをちらちら思い出したりして、嬉しくなることもあるしちょっと考えてしまったりもする。
その本の内容について前向きな期待を持って買った時、その期待に応えてくれたときの記憶が甦ると楽しいのだけど、半ば義務感のようなもので買い、読み終えてもそれを越えられていなかったりそれ以前に途中までしか読めなかったりした本は、どうも持っていても重い感じがする。
だから重い本はなるべく本棚から取りのけているのだが、取りのけているうちに残した本の持つオーラのようなものがつながってきて、取りのけた本の中にも読もうという気持ちが改めて起こってくるものもある。
私の本棚には、一番本を買っていた80年代後半から90年代前半の本が結構多いのだけど、そのころには読んでいてあまりよくわからなかった本も、今少し読みなおしてみるとこういう意味だったのかと改めて思う本もあり、自由な気持ちで本棚を作り直してみると、改めて得るところが多いように思った。
こうの史代原作・片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を観た。
こうの史代原作・片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を観た。この作品は自分の中でもとりわけ意味を持つ作品なので、感想と言うか思ったことを、ツイッターなどに書いたこともまとめながら書いておこうと思う。
私が原作を読んだのは2009年だった。ブログを見ると12月21日のことだから、父が亡くなった直後のことだとわかった。出版されていたのは2008年で、存在は知りながら読むのをちょっと先延ばしにしていた、ということのようだ。今と少し感想が違うので、再録してみたい。
(元のURLは http://www.honsagashi.net/bones/2009/12/post_1679.html )
「昨夜は寝るのが遅くなって、結局3時半になってしまった。今朝の起床は7時半。普通に起きて普通にしようと思っていたのだが、昨日から読みかけのこうの史代『この世界の片隅に』上中下(双葉社、2008-9)を読んでいたらつい読みふけってしまい、9時過ぎまで手が離せなくなった。
一言で言ってこの本は、今年もっともよかった作品の一つに入る。今思い浮かべるもので言えば、『ピアノの森』と『日出処の天子』に並ぶ、といっても過言ではない。こうの史代は、『夕凪の町・桜の国』で並々ならぬ才能を感じたけれども、この作品ではそれをさらに上回っている気がする。一度だけ、『週刊アクション』を買って雑誌連載されているのを読んだけれども、この作品が雑誌に乗っているだけでなんだか奇跡なような気がしてしょうがない。個人雑誌『わしズム』を発刊していた小林よしのりが彼女の作品に感動し、彼の主張をどんなに曲げても、反戦ものでも左翼ものでもいいから描いてほしい、と頼んだというその力のすごさはこの作品でさらに遺憾なく発揮されていると思う。
絵を描くのが好きな10代の女の子が、顔も知らない人のお嫁にいく。そこで繰り広げられる毎日の哀歓。毎回必ず落ちがつけられる律儀さもこうのらしくていい。読み直していて気づいたが、最初の回で主人公すずは将来夫になる周作に出会っている。
上巻、中巻と淡々と進む物語。偶然出会って親しくなった赤線の娼婦りんが、周作の過去の女であったことに気づいてしまうことで、ぼうっとして明るい一方のすずの心におこる腹が立って仕方ない気持ち。りんは全てを知っても、その明るい諦念ですずの心に火を灯す。敵わないなとすずに代わって私が思ってしまう。
下巻は、書くのが辛くなるような展開。しかし、それが戦争というものだとしみじみ思う。読みながら、変な声を上げてしまった。泣くと言うより、哭くというのにふさわしいような。広島と呉を舞台に繰り広げられる物語が、まっすぐと8月6日に向かって進んでいく。そしてそれを通り過ぎ、15日を通り過ぎる。何があったか、今はまだここに書きたくない。翌年の一月、広島で出会った一人の孤児を呉に連れて帰り、どうやら彼女の面倒を見ることになることで全巻が幕となる。死と再生というには、あまりに辛い物語。でもこれほど明るく戦争を書いた作品もないかもしれない。こうの史代の並々ならぬ力は、こういう題材においてこそ発揮されるのだと改めて感じた。この作品に出会ったことの幸福を心から感じられる作品。」
読み返してみて驚くのは、この映画で初めてこの作品、ないしこうの史代さんの作品に触れた人の感想と、とてもよく似ているなあということ。私は下巻の展開が辛すぎて、そのあと読み直すことが出来なくなっていたから、ちょっとトラウマのようになっていたけど、それでも「夕凪の街 桜の国」よりもこの作品の方が凄い、と思ったことはこの感想を読んで思い出した。
今回映画を見て強く感じたのは、このストーリーはまるで民族の神話のようだ、と思ったこと。エピソードの一つ一つが、全部リアルでありながら、全部が神話のエピソードのようだ。宮崎駿さんの作品も神話的なところはあるのだが、彼の場合は彼自身のエゴがその神話性を中和、ないし中毒?させてる。こうのさんの問い、すずの叫びはギリシャ悲劇に出てくる女の、神への呪いのようだ。
その、暴力への呪いを、終戦の日のあの慟哭で、のん=能年玲奈さんがあんなに実現できるとは。
どうしても、原作の方に関心が行ってしまうので、映画のことを先にかいておくと、のんさんは、第一声でこれはすずだ、と思わせる凄さがあった。声優というものを超えた声の身体性のようなものがあり、のんびりした人でありながら芯に怖いくらいの強さ、というか激しさを持っている、すずにこれ以上の声はないだろうなと思った。
風景の素晴らしさはいうまでもないのだけど、特に感じたのは動画のよさ。冒頭近くでおばあちゃんが弧度のもすずの頭をなでるとき、手を離すと反動でぼわんと頭が戻る、あの動きがもう子どもの匂いさえ感じさせるもので、ここまで丁寧に描かれている映画が面白くないはずがないと確信させられるものだった。
そして、私の中でトラウマになっていたのは、私にとってこの作品が「姪と右手を失い、戦災孤児を得る死と再生の物語」だったからなのだが、この作品はそう言う部分だけでなく、もっとそれを包む日常のふんわり感というか、そういうものがあることを思い出瀬田のがよかったと思う。ちょっと調べてみるとこの戦災孤児には絵コンテで「ヨーコ」と名がつけられているということで、この子が成長して行く様がエンドロールで描かれて、そこに救いの要素が大きくなったなと思った。
私は最後の場面で周作が「呉」の地名の由来をすずとヨーコに説明するところが好きで、ああこれは「国褒め」だ、と思ったし、その前の場面ですずが周作に「呉はうちの選んだ居場所ですけえ」という場面で、何か十分物語は終わったと思った。それに、その前の広島での場面で「周作さんありがとう。この世界の片隅でうちを見つけてくれてありがとう周作さん」と言っているし、リンとの経緯も含めて、全てを呑み込んで生きて行く気持ちになったことが、救いそのものだと思っていた。
だから、「ヨーコの成長」まで描くのはちょっと蛇足のような気がしなくもなかったのだけど、片渕監督のインタビューを読んで、そこまでしないと行けない、多分そう言う、「今(2016年)と言う時代の空気」があるんだろうなあと思った。私も、「君の名は。」では、ラストで絶対二人は再会してほしいと思ったし、それが叶って凄く安心したから、多分現代のように無意識の不安が強い時代には、蛇足とも思えるような安心感が必要なんだろうなあと思った。
さて、やはりここで書かなければいけないのは、白木リンの存在が映画では相当小さいものになってしまったこと。これはいろいろ考えたのだけど、考えたところをいろいろ書いてみたい。
最初に思ったのは、すずの「純粋性」をラスト近くの衝撃まで取って置くためなのだろうということ。リンと周作の過去についてあれこれ気をもむことで、「純粋性」はどうしても薄れる。それを出さずに最後の衝撃に初めてすずの強度の動揺を持って行ったのは、それがのんさんの声にも合っていたし、戦争という暴力への神話的な怒りを強調するためにはよかったと思う。
ただ、やはり原作であれだけ大きな存在で、すずに「敵わない」と思わせたリンがあの扱いであるのは、やっぱりちょっとリンが浮かばれない感じがする。そして、「周作の過去」であるリンと、セットの意味で「すずの幼馴染み」である水原の位置付けも、ちょっと突出してしまう感があったのはやや残念だった。水原は海軍の乗組員であることから戦争というテーマにもつながるということもあったのだろうけど、周作とすずの人間の陰影というものがこの件がカットされたことで少し霞んでしまったことは残念だった。ただ、「のん」の神話性を高めるためには、大成功だったとは思う。
だから、最終的には尺の問題でどこかを切らなければ行けなかったからその大胆さにおいてリンの扱いは成功だったのだろうと思うのだけど、周作の人間性がなんだかひょろいだけの、我のない感じになってしまって魅力が減ってしまったのは残念だった。
リンのくだりでは、子どもが出来ないと悩むすずに遊女のリンが「子どもがおったら支えになるし、困りゃあ売れるしね!」と朗らかに言って「なんか悩むんがあほらしうなってきた」と毒気を抜かれる場面があって、まあ子どもも見るアニメ映画にはしにくいだろうけど(外国映画ならしそうだが)、物語全体にもっと華が出ただろうなと思う。
そのおかげですずがちょっと「聖女」になり過ぎたと言う意見も聞いた。こうの史代さんの作品の登場人物は、ただ「いい人」なだけでないところがとても魅力的なのだけど、その「でない」部分が捨象されて語られることが多くて、何というか歯痒いのも事実なので、そう言う意味でもちょっと残念だったかもしれない。
上巻は聖女で良かったんだと思う。ラストも周作とのキスシーンで終わっていたし。もし出来れば、映画も上中下と三編に分けて作れたら良かっただろうなと思う。「1900年」とか「風と共に去りぬ」みたいなサイズになりそうだけど。
この作品を見てからKindleでダウンロードして原作を読み直し、「ユリイカ」の特集と「アートブック」を買って読んだり、ネットでさまざまな情報に当たったりしたのだけど、ユリイカのインタビューで「他人同士、特に男と女は絶対に理解しあえないという前提で書いてます」と答えている。本当にそれはいつも読んでいて感じるのだけど、でもそこが優しいのだと、私などは思う。人は深淵を抱えつつ、決して理解しあえず、でもいたわりあい、強く生きることは出来る。
ようやく最初に読んだときの本を見つけ出し、手に取ってみて、最初に読んだ時の感じがまざまざと蘇ってきた。やはり現物の持つ記憶は違う。この本は、思わぬところに深淵が口を開けている、とても怖い本なのだ。その理由は、やはりこうのさん自身の人間の信じられなさというかそういうものにあるのだろう。
そしてその人間の信じられなさが、その怖さがこの作品の持つ神話性につながっている。神話の教えるところの一つは、神よりも魔物よりも恐ろしいものは人間だということだと思う部分があるのだが、こうのさんの描く人間の怖さが神話の闇につながっている。暗い洞窟の先にそれがある。
というように、「一番恐ろしいものは人間」などと書くと、例えば戦争も人間が起こすものだから人間は怖い、みたいな話につながりそうなのだけど、私のいいたいことはそういうことではなくて、もっと本来的な人間の底の知れなさ、みたいなことだ。
また一方で、「戦争は人間が起こしているもの」という発想があるからなくならないということもあるのではないかと思った。人間が起こしているなら人間を変えればいい、と思想教育、平和教育を重視しようという方向性になっていたと思うけれども、結局それでは戦争はなくならなかった。そして、そういう意味での「人間は変えることが出来る」という、思想教育の弊害はかなり大きくなってきてる気がする。
戦争が起こるのは人間そのものに問題があるからと考えるより、むしろ事物の勢いみたいなものがあって、戦争が起こる前にどう制御するか、みたいな智慧を磨く方が大事と思う。平和主義思想には必ずその反動としての好戦思想が現れ、絶対平和主義には反動としてナチズムみたいなものが現れる気がする。ポリティカルコレクトネスの嵐の後のアメリカでトランプが勝利したように。
戦争と平和の問題は、要するに事物の勢いを制御する智慧の問題のようには思う。発展途上国における原初的な好戦思想みたいなものはどう制御すればいいのかはよくわからないのだが、文明どうしの対話みたいなものは、出来なくはない気はする。方法を知ってるわけではないけれども。
そんなふうに現代社会と神話をつなぐその場所に、こうのさんの作品はある気がするし、わかりあえない部分でこそわかりあえる、みたいな逆説が、こうのさんの作品にはあるような気がした。
現在の関心のありか。政治プロセスの面白さ。
おはようございます。
私事ですが、54歳になりました。新しい年齢になるにあたり、今感じていることを少し書いておきたいと思います。「お」はつきませんが、「気持ち」です。
何をやりたいのか自分ではっきりさせられない時期が続きました。何でも出来るような気がしていた時期と、何も出来ないような気がして、でもそんなことはないはずだとそれに抗いながらやりたいこと、出来ることを探している時期が続きました。
いま、自分の関心が、政治過程=政治プロセスにある、ということがわかりました。政治がどうやって動いて行くかというプロセス。それを政治家がどうコントロールしていくのか。それがはっきりするきっかけが、西川賢さんの「ビル・クリントン」を読んだことでした。
政治過程が不透明な部分の多い日本の政治と違い、アメリカではある程度オープンで、議論自体が開かれたものであることと、かなりの部分があとから検証できるようになっている感じがしますし、そのプロセス自体も共有され、財産になっているように思います。
魅力的な政治家は、そのプロセスのハンドルの仕方が上手い。クリントンは失敗の多い政治家でしたが、その失敗をリカバリーする力を持っている。レリジエンスが強いタフな政治家であるということが、彼が政治生命を全うし、大きく評価されている理由なのだと思いますし、今回この本を読みながら、そのことを強く感じました。
日本で政治プロセスのハンドルの仕方が上手く、自分のやりたいこと、ないしはやらなければならないことを実現して行く力を持っている(持っていた)政治家として上げられるのは小泉純一郎・安倍晋三という2000年代と2010年代を代表する二人の首相ですが、今一番注目したいと思っているのは小池百合子さんです。彼女は上手に状況をコントロールして、無謀とも思えると知事選立候補から、ついに女性初の都知事になりました。初の女性首相とすら見なされた時期もあった中で第二期安倍政権の中でポストを与えられなかった中、取り組むべきポストを自ら奪取したわけで、これは彼女の才能が発露した決断だったと思います。
そのほか、終戦の日の靖国参拝問題が取りざたされていた稲田知美防衛庁長官が、お盆期間中に海賊対処法に基づいてジプチの海上自衛隊を視察に出張する、という判断も、これは誰がしたのかはわかりませんが、政治感覚の鋭い判断だったと思います。靖国参拝も重要だが、現についている任務を優先し、しかも海外の自衛隊の視察に行くというのは、その姿勢が後退した、という印象を与えません。稲田さん自身の判断だとしたら稲田さんの政治感覚は侮れないと思います。
私は修士論文をフランス革命期のボルドーの革命前後の政治過程というテーマで書いているのですが、この時には政治過程に興味があるとは思っていましたが、そこまで深くは自覚していませんでした。ここに戻って来たことで、自分が興味があるのはそう言うところなんだということを改めて自覚した次第です。
それから、今自分の本棚を見ていて思ったのは、私は例えばスタジオジブリの鈴木敏夫さんとか、Appleのスティーブ・ジョブズと言う人に興味があると言うこと。それは、二人とも企業の意思決定の過程をハンドルするのが上手だということですね。ジョブズが上手だと言うのはまあ語弊がありますが、それでもなんであれ結果的に自分のやりたいことを実現して行くわけですから、破格な経営者ではありますがその意思決定プロセスへの関与の仕方は興味深いものがあります。
鈴木敏夫さんは宮崎駿と高畑勲と言う二人の期待の天才アニメ制作者の才能を最高に引き出すための事業経営という点で、やはり群を抜くところがあります。ジョブズもそうですが天才というのはある種の「問題」、それも相当難度の高い「問題」ですから、それを「解決」して行くプロセスもまたある種破格なものがある。それはどういう過程でも通用するように一般化することは出来ない、というか一般化にはあまり意味がないと思いますが、しかしそれを調べてみること自体はすごく面白いことだと思います。
政治は常にクリエイティブでなければならないし、企業経営、企業活動も常にクリエイティブでなければならないと思います。で、クリエイティブであるということは、一回一回の問題への取り組みが常に初の自体であるということ。マニュアル化したり一般化したりすることが出来る部分もあれば、そのときの解決法がとても他のケースでは使えない、ということもあります。世の中の多くの問題はルーティン的な解決で何とかなりますが、本当はそれでやらない方がいい場合でもルーティン的、原則的な解決が図られる場合もある。まあ、原則で処断した方がいいケースでそうせずにルーズに流れてしまう場合もあるわけですが。
冷戦後の時期のアメリカ大統領であるとか、スタジオジブリのアニメ制作であるとか、「初の事態」を乗り切るためには、クリエイティブであらざるを得ない。その辺りが本当に面白いのだと思います。
問題のありか、その問題のどこが本当の問題なのか、その問題の本質のつかみ方がまず重要ですし、それを解決するためにはどういう手段を動員すればよいか。また、解決策をどのように見つけ、どのように実行に移すのか。その実施をどのようにハンドルし、どのように検証するのか。政治の舞台やアニメ制作の現場では、大きな問題から小さな問題まで次々と課題が現れ、それを的確にハンドルして行かなければなりません。そしてその修羅場の中でどのように自分をリフレッシュさせながら問題に取り組んで行くか。タフさも問われます。
「シン・ゴジラ」が面白いのもそう言うところなのだと思います。
ですから、興味があるのは「政治プロセス」というよりは「クリエイティブなプロセスそのもの」なのだなとも思いますが、この点を一般化するとまた関心の中心が拡散して行くといけないので、とりあえず「政治プロセスに関心がある」ということにしておきたいと思います。
物語への関心というのも、結局はこうしたプロセスの問題が好きだからだな、と思います。現れた課題をどのように解決して行くかという物語。その中での主人公の成長。「ナルニア」も「天路歴程」もそうなのですが、「天路歴程」では成長とは信仰心の深まりである、と定義されているところが独特で、その辺が面白いなと思います。
私は歴史が好きで歴史を専攻したわけですが、別に古文書が好きなわけではなく、政治(だけではありませんが)プロセスを理解して行くことに興味があったのだと思います。そしてそのプロセスのハンドルの仕方に個性があり、歴史的な人物の個性がそこに表れて来ることが興味深いと思ったのだなと思います。
54歳といえばもうだいぶいい年で、ロック54だからロックな年だと嘯いてみたりしますが、この方向で自分のやりたいこと、興味のあることに取り組んで行きたいと思っています。
西川賢「ビル・クリントン」を読んだ。面白くてためになり、アメリカの来た道が理解できたとともに日本の現状を理解する上でもとても示唆的だった。
しかし大事なことは、政治は何でも出来るわけではないということで、これはアメリカだろうと日本だろうと同じことなのだ。左翼の人は無意識に政治は何でも出来ると考えている人が多いように思うが、政治が出来るのは政治の領域のことだけなのだ。一度政治が動き出したらものすごい力が働くから、それを感じたことがある人は政治は万能だと錯覚してしまうこともあるだろうなと思うけれども。政治が何でも出来ると考えるのは敢えて言えば「政治に甘えている」ということであり、「国家が何をしてくれるかではなく自分が国家に何を出来るかを問いたまえ」というJFケネディの演説の意味もそこにある。政治は基本的に調整機能であり、利害調整や国家国民の保護、国民経済の繁栄などのために政策を打つもので、何でもやってくれるものではない。当たり前のことだが、この本を読んでそのことを改めて強く感じた。
この本はまずクリントンの生い立ちから書いていて、このあたりのクリントンの成長期の苦労の多さは彼の女性関係の幅広さなどに関係していると思わざるを得ない感じがするし、彼は自分のことを「アダルトチルドレンだった」と告白していたことを思い出す。しかし、逆に言えばその逆境を乗り越えて大統領にまでのし上がったそのタフさは驚くべきものだと言うべきだろう。その逆境、トラブルからの回復力を英語で「resilience」と言うそうだが、確かに彼はアメリカ大統領で最もそれが強かった人かもしれない。