史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

「教育改革」に必要な考え方は何か

中央公論 2007年 04月号 [雑誌]

 

中央公論の2007年4月号で、養老孟司氏の「鎌倉傘張り日記」という連載エッセイを読んだ。

 

この回では、現代の教育がなぜ困難なのかを論じていた。

 

現代は大衆消費社会である。

 

「消費者の行動は、等価交換を原則とする。つまりは物を買うという行動、交換には時間性がない。乱暴に言えば、交換とは一、二の三なのである。教育から時間を抜いたら、何も残らない。教育の本質は、諸行無常の世界にある。人を変えていくのが教育だからである。そこでは等価交換は本質的な矛盾なのである。」

 

だから、現代では教育が成り立ちにくい、と言っているわけである。

 

「私」というものが「変化」するところに「教育の本質」がある、という指摘はそのとおりだと思う。

 

養老孟司氏では『バカの壁』などでもそういう記述があったが『バカの壁』を読んだときには何を言いたいのかあまりよく分からなかった。

 

教育というのは本質的に交換経済の消費行動になじまない。「授業という商品の価値は子どもにはわからない。なぜならその価値は、長い時間を経たあとでないと、理解できない。」からだ。その理解できないものを無理やり買わされる。その時「消費者」のとる行動は「値切り」にならざるを得ず、授業における生徒の態度の悪さは根本的には「値切り」だというのである。(これは内田樹氏の著書の紹介として説明している)

 

つまり、教育が成り立たなくなっている、学級崩壊とか学校崩壊とかの根本的な原因は、子どもが社会で役割を持ったいわば「生産者」として学校に来るのではなく、「消費者」として学校に来るようになったことにある、というわけである。

 

これはかなり鋭い指摘だと思う。私の経験から言っても頷けるところはある。すべてがそれで解けるかどうかは別の問題だが、態度の悪い生徒というのが自分を高め、社会に有用な人間になるという意識が持てない生徒に多いことは間違いない。

 

「これを勉強してなんの役に立つの?」という問いには本質的には「いいからやれ」という答えしかない。それを勉強してそれを本当の意味で理解したときになって、つまり子どもが「変化」して初めてその価値がわかるものだからである。

 

一生わからない、つまり「変化」しない人もいるかもしれない。そういう意味では、「いいからやれ」をどのように表現して「変化する前の子ども」に取り組ませるかが教育の本質的な課題なのであって、これはそう簡単なことではなく、すべての教育という営為の根本的な課題がそこにあることは子どもを育てることに関わるすべての人が理解しなければならないことだと思う。

 

ここまでは氏の文章での指摘だが、であるならば、教育現場では何に取り組まなければならないかと言えば、「消費者」を「生産者」に変える、という試みだろう。

 

受動的な姿勢の生徒たちを能動的な学習者に変えなければ、学校で課される様々な生徒にとっては意味の分からない課題に、取り組まなければいけない必然性が分からない。

 

学校を、学習する場である、という意識で再び統一しなければそれは無理なのだが、当然ながら保護者の理解も必要で、それはより生産者としての意識の高い保護者の質と数がどれだけ存在するかにもかかっているだろう。

 

そして何より教師の側が、学校は学びの場であると言う当たり前の前提を、もう一度確認しなければならないと思う。

 

現実の教師たちを見ていると(過去の私も含めて)なかなか難しいところもあるのだが、教師たち自身がより高いところを目指して自己研鑽を積む姿勢を見せなければいけないと思う。

 

教育改革とは、その意味では、消費者になってしまった子供たちを、もう一度生産者の側に取り返す試みなのだということになるだろう。