史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『最後の国民作家 宮崎駿』と「宮崎アニメの描く過渡的・奇形的な自然」

最後の国民作家 宮崎駿 (文春新書)

3年前、2011年の今頃のことになるが、酒井信『最後の国民作家 宮崎駿』(文春新書)を読んだ。この本は、私に宮崎作品を考える上での、また宮崎の発言を考える上での一つの枠組を提供してくれたなと思う。

 

今までジブリコーナーなどで立ち読みした『ユリイカ』の特集などはみな主観性が強すぎて、好きか嫌いかという話になってしまっているのが多く、そんなもの読まされてもこっちは何の意味もないという感じがしていた。

 

この本は「宮崎アニメを熱烈に支持した最初の子どもであり、国民的な存在になったときに思春期を迎えた最初の青年だったという世代」の作者が「なぜ宮崎アニメは国民的な存在になったか」を考察していく客観性に満ちた本で、そこに展開される分析がすべて妥当なものかどうかはともかく、一つの仮説としての理解の枠組を提供してくれているのは大変ありがたいと思った。宮崎は作品を分析されるだけの存在ではなく、それを受け入れた日本社会とのかかわりの中で考察されるべき部分がやはりあるのだと思う。

 

そして、宮崎自身がそういう日本社会とか日本の自然とかにすごく目を向けていてさまざまな意見を現に発信している存在でもあるということもすごく大きい。オーソドックスな意味で彼はある意味社会を「導いて」いる、つまり指導者の一角にいる部分がある。本人は強く否定するだろうけど、思想を発信するということは必然的にそういうことになる。

 

しかしその発信される「思想」=物語はディズニーのようにストーリー先行ではなく、また他の多くの日本のアニメのようにキャラクター先行でもなく、むしろその背景に描かれている「もの」であり人々の「仕事」であり、「風景」であるというのが酒井の主張で、これは宮崎やジブリの作品の本質をよくつかんでいると思う。言われてみればあまりにその通りの素直な受け取り方だなと思うのだけど。

 

その中で、特に『自然』あるいは『風景』の描きかたについての議論に注目してみた。

 

ものがどういうものとして存在するか、人が人としてどういう営為をするか。そして自然と人間のぶつかり合いとして生まれるところ、その最前線の戦いの場である「郊外」を中心とした風景とかがどうあるかということについて著者は書いている。

 

「存在」「営為」「自然と人間のせめぎあいの場」といったことがそのまま宮崎のテーゼとして提出されていると作者はいう。『となりのトトロ』は単なる自然礼賛の話ではなく、人間の手が入ることによって奇形化した存在であり、それが猫バスに現れている、というのは結構シビアな指摘だと思った。

 

化け猫も、水木しげる的な古怪な妖怪ではなく、化け猫さえバスに化けるのが昭和という時代なんだ、という宮崎自身の言葉。だからあの話は昭和30年代の話であって、明治やそれ以前にはあり得ない話なのだ、そういう意味で過渡期の話であり、その過渡期の延長上にある現代という時代性を切り取っている、というのはなるほどともった。

 

一番うーんと思ったのが、宮崎が高畑勲の『おもひでぽろぽろ』における農村の描き方を批判しているところだ。「農村の風景は百姓が作った」という言葉を、「日本共産党の宣伝カットみたいだ」と切って捨てている。文明と自然は容易に和解出来ない、という認識を宮崎は強く持っている。それは『ナウシカ』にも『もののけ姫』にも強く現れているが、実は『トトロ』からそうだったのだ。

 

我々の自然は、もはや太古の自然と同じではあり得ない。その痛切さが描かれたのが『もののけ姫』だった。その自然がさらに失われていくと現代の少し前の『トトロ』になり、壊滅的に失われ、しかしその中で徹底的に奇形化すると『ナウシカ』の腐海になる。宮崎の描く自然は、考えてみるとある種の呪詛だ。

 

しかし、その滅び行くもの立ち、奇形化していくモノたちを、宮崎は切り捨てては行けない、愛そうとしているように思える。『耳をすませば』の街並も、駅前やコンビニのごみごみした風景を、それはそれで愛着を持てるように描いていたように思う。

 

ナウシカ」でも、特にマンガ版の方では、作中の放射能にけがされた世界を愛し、清浄な未来のための種子を虐殺すると言う究極の選択をとる。清浄な種子たちが復活したら、けがされた作中の生き物たちは、滅ぼされるしかないからだ。そこまで宮崎は、今生きている、それがどんな奇形的なものであっても、その生命を愛したいと言う強いテーゼがあるのだ。

 

彼にとって自然とか風景というものは、そういうせめぎ合いの中にある、愛憎相半ばする、そのことを考えていると疲れ果ててしまうような存在であるから、農村の風景を能天気に『自然と人為の調和』であり『百姓が作った風景』であると礼賛する高畑の姿勢に強く反発を感じたのだろう。

 

かぐや姫の物語』と『風立ちぬ』の比較でも思ったが、高畑は先に結論があり、そこまでのストーリーをどう描くかということの中にものすごくやりたいことがあるわけで、いわば物語から絵が紡ぎだされている。それはスタティックな作り方だと言っていいだろう。しかし宮崎の場合はそうではなく、絵を描く中でストーリーが紡ぎだされていく、つまり絵から物語が紡ぎだされるという、ダイナミックな作り方をしているのだ。

 

だから描かれている風景そのものが宮崎に呼びかけてきて、その呼びかけに宮崎はなんとかして答えようとする。描かれている風景、描かれている自然、描かれている街並、そういうものが呼びかけているものの中から物語が生まれ、またそれの持つ力によって簡単に物語がねじ曲げられたりしてしまうのだ。

 

高畑勲という人は、頭脳明晰で、大変頭のいい人だと思う。そして様々なことをよく知っていて、それをふんだんに表現に生かしている。宮崎駿という人は、自然や風景が憑依した職人みたいなもので、物語がどう作られるかは絵がどう描かれるかにかかっている、というところがある。

 

そして、その風景や自然は、実は多くの日本人の中に生きている。肯定したり否定したりしながら、それでも無意識のうちに持っているその過渡期の、人と自然とのせめぎ合いの中にある風景や自然に対して、愛着を持っているのだ。それらを精密に描き、それらの語るものの中から紡ぎだされる物語を聞かせてくれる。それは、今のところ多分宮崎駿にしかできていないことなのではないかという気がする。

 

例えば国民作家であるというのは、宮崎の場合、そういうことができることでもあるのだろう。

 

多くの日本人は、自然の変化していく有様や風景のごたごたぶりに違和感を持っている。違和感を持ちながら愛している。それは全肯定したくはないが、全否定もしたくない。

 

 

その愛憎相半ばぶりがそのまま描かれているからこそ、宮崎の描く自然は美しく、また物語は懐かしいのだろうと思う。