史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』は19世紀音楽史だけでなく社会史を知るのにも大変読み応えのある一冊だった。

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

 浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』(新潮新書、2013)読了。題名から感じる雰囲気とは全く違い、19世紀中盤の音楽史・文化史を概観し、またリストという巨大な天才の生涯を概観することができる素晴らしい本だった。

 

リストはイメージとしてはショパンのライバルという感じで、だいたいショパン(シンパ)目線で書かれた本を読んできたので、何となくいけ好かない感じのイメージになっていたのだけど、実際にはかなり違ったようだ。

 

ショパンポーランドの魂、という感じにまでポーランドとの同一化が進んでいるのに対し、リストとハンガリーの関係はもっと複雑で、そのあたりも名前が知られている割には作品があまり演奏されないこととも関わっているのかもしれない。この本では、リストは「故郷のない人間」として書かれていて、子孫もまた「リストはヨーロッパ人でした」と言っているのだという。彼はロシア・トルコからポルトガルまで、全ヨーロッパをまたにかけた演奏活動を何年も続けていて、そういう意味でコスモポリタン演奏家の走りだったようだ。

 

村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に出てくるリストの『巡礼の年 第1年』の「望郷」ないしは「ホームシック」とでも訳されるべき"Le mal du pays"などを聞いていると、確かにショパンのような華やかさはなく、また深い精神性を感じさせて、そういう意味でとっつきにくい作品であるように思った。

 

ヨーロッパ文化史の解釈もなるほどと思うことがあり、たとえば「エレガント」というのは貴族の美意識で、モノよりも精神性を重んじ、「シック」というのはブルジョアの美意識で、「もの」を重視する、というのもなるほどと思った。

 

リストはベートーベンの弟子だったツェルニーの教えを受けていて、そういう意味ではベートーベンの孫弟子にあたる。ベートーベンの後期のピアノ曲を演奏会で盛んに取り上げて、その素晴らしさを世間に知らしめたのもリストであり、「リサイタルを開くピアニスト」という存在が市民権を得たのもリストの功績だったようだ。

 

また同時代の音楽家の誰よりも長命だったリストは、後進の音楽家を励まし、新たな道を切り開いている。リストの娘のコジマはワグナーの妻になったが、そのワグナーよりもリストは長生きし、たまたまではあるが小島の尽力もあってワグナーの殿堂となったそのバイロイトでリストはなくなり、今でも葬られているのだという。

 

そのほかいろいろなことが書かれていて、すべてのことを吸収しきれていないが、この本は本当に力作だと思う。帯に「音楽の見方が一変!」とあり、誇大広告だろうと思って見過ごしていたけれども、実際音楽史の知識が足りない私にとっては、それくらいのインパクトはあった。

 

読んで、また聴いてみないと、この本の内容は味わい、吸収し尽くせない感じがする。

お勧めできる一冊だった。

野村進『千年、働いてきました』を読んだ。(3)独創的なアイディアとは、「チャップリンのステッキ」をみつけること

(その2)からの続きです。

 

野村進『千年、働いてきました』。後半も、どのエピソードも面白い。

 

ブリキ製造業がカンテラを作ることでガラスの技術を得、それが鏡の分野への進出の始まりで(ところで鏡台作りが静岡の地場産業であるということははじめて知った)、トヨタにバックミラーを納めるようになり、今では全国の4割のシェアを持つのだという。

 

岡山の林原産業のエピソードなども実に面白いものが多かった。(林原は2011年会社更生法適用を申請し、現在は他社の完全子会社になっている。この辺りの過程にはいろいろあったようだが。)

 

老舗の企業が成功するのは結局本業を守りつつその応用分野への進出程度にとどめることで、本業が何かという意識を捨てたらダメだ、という話はなるほどと思った。

 

どうやったら独創的なアイデアを見つけられるか、という問いに対し、林原社長は単なる組み合わせだと思う、という。著者はそれを敷衍し、「チャップリンのステッキ」というたとえを使う。どた靴もだぶだぶの服も山高帽も付け髭も使い古されたギャグの小道具に過ぎなかった。チャップリンの独創は、それらを組み合わせてそれにステッキを加えたに過ぎない、という話である。しかしそれによって統一性が生まれ、全く新しいスタイルのコメディアンが誕生したと観客の目には映った、というわけだ。この話は非常にわかりやすいと思う。

 

周りを見渡す目と自分の仕事を客観的に見る目、それを組み合わせる工夫とそこに「世の中に役に立つ」可能性を見出すセンスがものをいう、ということになるだろうか。こういうことはまさに言うは易し、という感じのことで、日々の仕事に追われている中でそういうことを見出すのは難しいことだろうと思う。しかしチャップリンのステッキという考え方は、いろいろなことについてヒントになるのではないだろうかと思った。

野村進『千年、働いてきました』を読んだ。(2)老舗企業の最先端技術。古いばかりじゃないんだ。

千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21)

 

(その1)からの続きです。

 

この本の面白さはいくつもあるが、製造業において、老舗企業の最先端技術、という観点が面白かった。同和鉱業(2006年からDOWAホールディングス)の「都市鉱山」とはすなわち廃棄された携帯の山。この1トンあたりの貴金属の含有量は、鉱石に比べて比べ物にならないくらい高いらしい。それが不純物をたくさん含む銅山で培われた精錬技術がものを言って他の追随を許さない、などという話は全く「日本のものづくり」らしい話しだなと思う。

 

羊の毛を抜けやすくして毛を刈る手間をなくした新技術の発明はヒゲタ醤油。アトピーに有効な健康補助食品を開発した酒造会社。西洋近代科学の問題点をつく穏やかな社長の言葉はまるで先鋭的な哲学者だ。ちょっと驚いた。木蝋(ろう)の会社がシックハウスを防ぐコーティングを発明したり、「三代目あたりの養子」が発展させた呉竹の筆ペン事業など、どれもこれも興味深いものが多い。

 

伝統の技を受け継ぎ、その技術で何ができるか、新しい事業を模索する。また既存の技術の改良・開発に務める。そうやって老舗企業が生き残ってきた、というのはなるほどなあと思う。

 

特に勇心酒造の社長の、「近代に入ってから日本人はお米の新しい力を引き出して来なかった」という指摘には強引に目を開かされるような力強さを感じた。お米の力、といえばただ食べるほかに清酒や味噌など様々な醸造技術によって引き出されているわけだけれど、明治以降はそういう新しい技術の開発がない、という指摘は全く思いもかけない指摘で、驚いた。そしてそこに可能性を見る醸造家がいるという現実はすばらしいことだなあと思った。

 

ライスパワーエキスと名づけた製品をアトピーに有効な健康食品「アトピスマイル」に作り上げ、ようやく黒字を出したのだという。この技術を大手の製薬会社が共同事業の名のもとに技術を巻き上げて、「米から出来た入浴剤」として売り出したりしたこともあったという。この製薬会社の名は社長の意向で伏せられてはいるが、こういう仁義のなさは職人的な日本とは対極にあるものだなあと思う。

 

自然には無限の可能性が秘められている。そしてその自然と対話しながら、新しい可能性を引き出していく。そういう方向性が日本的なものづくりなのだなと思う。豊かな気持ちにさせてくれる本だ。

 

(その3)に続きます。

野村進『千年、働いてきました』を読んだ。(1)日本には、職人と権力の相互信頼関係があった。

千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21)

2006年に読んだ本だが、今でも印象に残っているので、少しこの本について書いてみる。(ウクライナについてのエントリも、順次更新予定)

 

野村進『千年、働いてきました 老舗企業大国ニッポン』(角川Oneテーマ21、2006)を

 

日本には創業100年を超える老舗企業が10万社以上存在するのだという。一番古いのは法隆寺創建当時からある金剛組で1400年以上。まあこれは別格だが、200年、300年ならごろごろあるようだ。これは世界的にも特殊なことらしく、ヨーロッパの創業200年以上の企業だけが加われるエノキアン協会で一番古いのはフィレンツェのエトリーニ社で、1369年創建だそうだ。日本にはそれより古いのが100社近くあるという。

 

そしてもうひとつ特徴的なのは、これらの企業の半数が製造業、つまり職人の企業なのだという。これはよく言われるように日本は職人の地位が高いということもあるが、もうひとつには権力の手厚い庇護があったこと、逆に言えば職人の側が権力を信頼していることも大きいということを著者が書いていて、それはなるほどと思う。

 

職人と権力の相互信頼関係のない社会、たとえば植民地社会などではこういう老舗企業は成立し得ないというのはその通りだなと思った。

 

(その2)に続きます。

『物語ウクライナの歴史』を読んでいる。(2)リトアニア・ポーランド支配時代は、現代ウクライナにつながる宗教問題の種がまかれ、一方でコサック国家の成立を準備した時代だった。

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ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(リトアニア大公・ポーランド王)

 

(その1)からの続きです。

 

キエフ・ルーシは1240年にジョチ・ウルス(キプチャク汗国)にキエフを征服されて滅んだ。その後継国家がハーリチ・ヴォルイニ公国として1349年まで存続した。この国は『最初のウクライナ国家』という位置づけがあり、その領域はウクライナ西部からベラルーシ南部にかけての地域だったが、最終的には東部をリトアニアが、西部をポーランドが併合して消滅した。

 

その後、ウクライナの地に進出してきたのはリトアニアだった。リトアニアはバルト語族で当時は非キリスト教徒であり、1246年にミンダウガスが最初の統一されたリトアニアの支配者となり、1316年にリトアニア大公となったゲディミナスはベラルーシウクライナの領域に進出し、『リトアニアとルーシの王』と自称した。ゲディミナスはリトアニア中興の祖と言われた。

 

リトアニア大公国はルーシ語を公用語とし、ルーシ化が進んだため、キエフ・ルーシの後継国家はリトアニアであるとする見解もある。

 

ゲディミナスの孫のヤガイラスはポーランド王の娘と結婚することでリトアニア大公家とポーランド王家は合同した。1385年のクレヴォの合同である。リトアニア人はカトリックに改宗し、旧リトアニアの支配領域も急速にポーランドの影響が増して行くことになった。ちなみにこのヤガイラスを祖とするポーランドの王朝がヤゲロー朝である。

 

その後もリトアニアポーランド同君連合ではあっても別の国家ではあったのだが、1569年のルブリン合同によってポーランドリトアニア共和国となった。ウクライナの地もポーランド化が進んで行くが、この時代に農民の農奴化がすすむことになった。

 

そしてカトリック国のポーランドに支配されたことによって、ウクライナの地では上層階級がカトリックに、下層階級が正教になるという構造になった。またポーランド正教会カトリックに合同させようとして失敗し、ユニエイト=東方典礼カトリック教会という存在を生み出した。ウクライナの宗教的な多様性の起源はこのときにさかのぼることになる。

 

その一方で、クリミア半島にはジョチ・ウルスの後裔のタタール人国家としてクリミア汗国が残り、また北方ではモスクワ公国がモンゴルの支配を利用しつつ勢力を広げて1480年イヴァン3世がジョチウルスから自立し、全ルーシの君主と称した。クリミア汗国はやがてオスマントルコの支配下に入り、スラブ人の奴隷狩りを行ってトルコに売りつける奴隷貿易によって繁栄したと言う。

 

そうした環境の中で、ウクライナの地は奴隷狩りにさらされ、人口が希薄になって行ったが、もともと肥沃な土地だったため、ポーランド支配の西方から逃れた冒険的な人々が住み着くようになり、ドニエプル川下流の川中島ザポロージェ・シーチと呼ばれる要塞を作って割拠するようになった。この人々がコサックと呼ばれるようになった。

 

以上のように、リトアニアポーランド支配時代は、現代につながるウクライナの諸問題の発生の時代でもあり、最もウクライナらしいコサック国家の時代を準備する時代でもあったといえる。

 

この時代は、ウクライナ人は主人公ではないため、支配者である周辺の諸国や諸民族の影響を強く受けながら、複雑な宗教構成や社会構成が形作られて行くことになったということがよくわかる。というか、その辺りがよく読まないとわからなくて、ただ受け身なだけの存在に見えてしまう。

 

しかし次の時代に出てくるコサック国家の存在が、ウクライナらしさというものを十分に見せることになるため、この時代のウクライナは雌伏の時代、準備の時代であり、ロシアとは違う民族性が形成されて行った時期だということもできる。

 

ウクライナは他国に支配されながら独自の進化を続けたと言うのがウクライナの主張であり、他国に支配されていたウクライナを取り戻してキエフ・ルーシ以来の統一を取り戻したというのがロシアの主張だということになる。

 

そういう意味では、清朝末期以来、大陸の支配を受けずに独自の歴史を歩んできた台湾の歴史に、ある意味重なるところがあるように思った。

 

(その3)に続きます。

『物語ウクライナの歴史』を読んでいる。(1):ロシア・ウクライナが正統な後継の座を争う「キエフ・ルーシ」はどのように興りどのように衰退したのか。

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

 

この本には、現在のウクライナの土地で興亡を重ねた多くの民族や国家について書かれているけれども、現在につながる存在として大きく取り上げられているのは、キエフ・ルーシ、高校の世界史では『キエフ公国』として取り上げられる国家だ。

 

それ以前の、この本で扱われたウクライナに歴史上登場してくる民族の名を書き連ねてみる。キンメリア人、スキタイ人。それからギリシャの植民都市とそれが独立したボスポロス王国、それを征服したローマ人。スキタイ以後の草原の支配者はサルマタイ人、あとゴート族、フン族アヴァール族、ブルガル族、それからケルネソス中心のビザンツ帝国。それからルーシが出てくるまでの間はハザール汗国、ということになる。スキタイの存在が大きいが、後のロシア人やウクライナ人の祖先である東スラブ人はスキタイの支配下で農耕に従事していたと考えられているようだ。

 

8世紀以降、スカンジナビア人口爆発が起こり、一般にバイキングと呼ばれる人々が外の世界に向けて進出して行った。その中で現在のロシア・ウクライナの地に来た人々はヴァリャーグ人と呼ばれたが、彼らは自らをルーシと称し、東スラブ人の土地に東スラブ人に請われる形で国家を形成したと言う。そのうち、最も大きな存在で、広範囲に権威を及ぼしたのがキエフ・ルーシだった。

 

私がこの地域の歴史を学んでいて不思議に思っていたのは、キエフ公国はなぜ大国家なのに『公国』なのか、なぜ王国でも帝国でもないのか、ということだった。この本を読んで疑問が解けたのだが、『公』とは『クニャージ』の訳で、これはkingなどと同根なのだそうだ。だから本来『王』という意味なのだが、キエフ公国は兄弟相続から父子相続になり、あちこちにクニャージと称する支配者がたくさん出てくることになって、クニャージの息子や子孫までみなクニャージと称するようになっために価値インフレを起こしてしまったために、『公』と訳されるようになったのだという。

 

キエフ・ルーシではヴォロディーミル(ウラディミル)聖公が国教をキリスト教とし、その子ヤロスラフ賢公は婚姻政策をとって娘たちをハンガリー王、ノルウェー王、フランス王の王妃とし、息子の嫁にポーランド王の娘、トリール司教の妹、ビザンツ皇帝の娘をもらった。キエフ・ルーシは商業を存立基盤とする国家で、その商業ルートはヴァリャーグ人たちの開いた北方ルートと黒海をへてコンスタンティノープルに至るルートで、その導線の先にあるヨーロッパの諸王国と婚姻関係を結んだわけだ。

 

ヤロスラフ賢公の息子がたてたミハイル聖堂は黄金のドームの美しさで知られたが、スターリンに1936年に破壊されたのだという。ウクライナは独立後、まだ財政的に困難な時期に、この聖堂を再建した。これはウクライナの起源がキエフ・ルーシであることを確認し、またソ連スターリンの爪痕を消し去る上で重要だったからなのだという。ソ連による同化、即ちロシア化政策が諸民族のアイデンティティを損なった有様が見て取れるし、また「ロシアが破壊したものをウクライナが再建した」ことも意味のあることだったのだろう。

 

日本の高校の世界史で教えられているのは、ロシア視点の見方であり、ロシアは何の前提も必要としないかのように、キエフ・ルーシの後継者の地位はモスクワ大公国をへてロシア帝国に受け継がれたと考えているけれども、ウクライナ人はそれに異議を唱えているわけだ。

 

キエフ・ルーシの正統な後継者の位置を、モスクワ公国の後継のロシアと、キエフに位置するウクライナが取り合っている。つまり、どちらの歴史が古く、どちらが成り上がりかをめぐる神学論争が、現在の対立の背景にはあるわけだ。

 

キエフ・ルーシは遊牧民勢力であるペチェネグ人やポロヴェツ人と戦ったが、それらの負担もあり、徐々に衰えて行くわけだが、それが決定的になったのは交易の衰退だった。

 

キエフ公国の繁栄は、イスラム勢力の進出により地中海貿易が途絶し、スカンジナビアからキエフ経由でビザンツに至るルートが繁栄したためだったのだ。

 

だから十字軍以降、西欧と中東を結ぶ地中海航路が復活すると、キエフルートの重要性は低下することになる。そのため、キエフ・ルーシやその分家たる諸公国は商業よりも農民を支配することに力点を置くことになり、商人国家から地主国家に性格が変わっていった。そういう風にキエフ・ルーシの衰退を説明していて、これは大変わかりやすかった。

 

その(2)に続きます。

ウクライナにおける対立 ー言語と宗教ー

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ウクライナにおける対立ー言語と宗教ー】

 

『物語ウクライナの歴史』を読み始めたのは、昨今のウクライナ情勢を見ていて、どうも本質的に何が問題になっているのか分からないために、何が何だかよく分からないという感じがあったので、歴史を知ることでこの辺りの情勢の背景をもっと理解したいと思ったことがきっかけだ。

 

一番よく分からないのは、ロシアとウクライナの対立というのは、一体何が対立しているのかと言うこと。日本での一般的な認識は、ウクライナ史はロシア史の一部だという物だろう。私も正直言って、ソ連邦解体のときに中央アジアカフカスの諸民族が独立するのは分かるけれども、ウクライナベラルーシがロシアと分離する必然性がどれだけあるのかと思っていた。ただ便宜上共和国が設置されているだけに過ぎないと言う認識だった。

 

しかし考えてみれば、ウクライナベラルーシソ連時代から国連加盟国だった。ソ連は3票持っているからずるい、という感覚があったが、それだけ特別な地位を持っていたともいえるわけだ。

 

現時点で見えていることは二つあって、その対立の本質が言語的なものであることと、宗教的なものであることが考えられる、ということだ。

 

ウクライナは西部ではウクライナ語が話され、キエフや東部ではロシア語の方が通用し、中部から東部の間では両者が混じったどちらでもない言語ができてしまっているらしい。ソ連時代のロシア語強制の遺物。これはWikipediaの情報だが。

 

ウクライナ語は語彙的にはポーランド語にかなり重なるらしい。この辺り、話者の多い西部が親ヨーロッパ的傾向が強いこと、東部では親ロシア的傾向が強いことと重なってくるわけだな。キエフはロシア語しか喋れない人も多くて、言語的な根拠が必ずしもないナショナリズムであるようだけど。

 

宗教的には、ロシア人はロシア正教会であり、ウクライナ人はカトリック教会か東方典礼カトリック教会か、あるいはウクライナ正教会に属するが、ウクライナ正教と言ってもウクライナ独立後に設立されたウクライナ正教会キエフ総主教庁に属する(最大会派)人もいれば、モスクワ総主教系の教会もあり、コンスタンチノープル総主教に認められたウクライナ独立正教会もある。その他プロテスタントユダヤ教徒もいて、クリミア・タタールイスラム教徒だ。

 

西部とキエフカトリックキエフ総主教庁が強く、東部と南部がモスクワ総主教系が強いと言うのも現在の情勢に一致する。

 

もちろんなぜそういう現象が起こっているかについては歴史をひもとかないと分からないわけだけど、長くなりそうなので、今日は『物語ウクライナの歴史』本文にはあまり立ち入らず、現今の対立の現状把握的に認識したことについてでとどめておきたいと思う。