史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『物語 ウクライナの歴史』を買った。

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

 

『物語 ウクライナの歴史』を買った。

 

昨今のウクライナ情勢について何か書きたいなと思いながら、どうも問題の本質がどこにあるのか今ひとつわからないので、歴史から勉強しなおしてみようと思って買ってみた。ロシア帝国ソ連、またその後継国家連合である独立国家共同体というものの複雑さというものが、話をすごくわかりにくくしている面がある気がする。

 

ユーゴスラビア解体のときはセルビアが一方的に悪者になったが、今回はロシアがその役回りになるかというとそんな単純なものでもなさそうだ。ウクライナ民族主義者はクロアチア民族主義と並んでナチスとのかかわりがあった(ロシアやセルビアの影響力排除のためにドイツに接近した)ことでも共通しているが、今回の問題でその要素がどれくらい問題になってくるか、興味深いところがある。

 

ロシアとウクライナの関係というのは、どこまで同じでどこまで違うのかという根本的なところから始まる。自分の印象では京都中心の朝廷と関東の武士政権の違いくらいなんじゃないかという気もするんだが、まあそのあたりから認識が分かりやすくなるといいなと思う。

 

この本はスキタイから始まってキエフ公国、リトアニアポーランドの支配、コサックの時代、ロシア・オーストリアの支配、中央ラーダ、ソ連時代、独立、という形で章立てがされている。モンゴルの支配や現在最大の火種になっているクリミアのあたりについてはあまり大きくは取り上げられてないようだ。しかし、章にはなっていなくても当然小見出しで示されてはいるので、基本的な理解は得られるだろうと思う。

サハラ砂漠の遊牧民、トゥアレグを巡る問題

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                  Photography by Dan Lundberg

昨年9月の『歴史と地理』に掲載されていた、私市正年「フランスにおけるサハラ地域の植民地化とトゥアレグ問題」を読んだ。

 

トゥアレグサハラ砂漠西部に住む遊牧民族で、アルジェリア、マリ、ニジェールリビアの領域に100万人から350万人の人口をもつと言われている。彼らは青いターバンと民族衣装を着用していて、男性が全身と顔を衣装で覆っている。砂漠に住む好戦的な民族として描写されることが多かったようだ。

 

このようなトゥアレグの話は昔から興味があったのだけど、歴史的な背景とフランスによる植民地化によって生じた問題、2004年以降のアルカイダ系との結びつきや、フランスの利権確保=再植民地化(このテーゼへの賛否はともかく)と幅広く現代の問題と結びつけながら書かれていて、この論文は興味深かった。

 

トゥアレグはラクダの遊牧と交易と略奪を中心とする民族だったが、フランスによる植民地化で最下層に転落させられ、かつては黒人奴隷を所有していたのに現在ではマリやニジェールに分断された生活圏で、黒人政府に圧迫されているという構造になっているのだという。

 

そこまではなかなか想像しにくいところなのだが、マリを中心とした地域で独立を目指すトゥアレグリビア内戦に傭兵として参加することで軍事力を高め、マリ北部に一時独立政権を立てたが、共闘していたイスラム過激派に倒された、という経過があり、これが昨年のアルジェリア人質事件につながっていっていて、背景として同じものがあるのだ、ということは理解した。

 

クルド人もそうだが、民族として一定の住民がいても、国家を持たないことで不利な状況に晒される民族というのは世界史的にはよくあることだ。トゥアレグもまたそういう立場の存在なのだということを、この論文で知ったのだった。

 

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』は、2013年に読んだ本で一番おもしろい本だった。

謎の独立国家ソマリランド

 

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』読了。面白かった。面白いという意味では、今シーズンナンバーワンかも。『多崎つくる』もよかったけど、これは面白いというのとは違うから、面白さという点では『ソマリランド』はここ数年読んだ本の中でも相当ハイレベルに面白かったと言っていい。

 

日本ではほとんど知られていないソマリ人という民族について、「国際社会に認められていないのに高度な民主主義を実現している」ソマリランドという国を皮切りに、ケニアの難民キャンプや海賊の横行する(しかし実は中身は氏族的ではあるが民主主義の)プントランドや、イスラム過激派アル=シャバーブとの戦闘などで戦闘に次ぐ戦闘の毎日ながら都人の雅さを忘れていない旧ソマリア首都モガディショと南部ソマリア

 

ディアスポラの人々のほか、さまざまな人に体当たりで話を聞き、文献を調べ、刑務所で海賊の話を聞いたり、現地人と一緒になって麻薬性の作用のあるカートを食べながら議論を繰り広げるという、実際他の人にはまねのできない突貫で、この大著を書きあげた気合と強運は、そう、やはりある種の強運と持って生まれた何かがなければ、この本は書けなかっただろうなと思う。凄いの一言に尽きる。

 

探検記というものは日本人の書いたものもスウェン・ヘディンのような外国人の書いたものも読んだことはあるが、ここまで現地人と同化しつつ日本人の視点から書いたものはなかなか読んだことがなく、エスノセントリズム(自文化中心主義、つまり自分の視点を一度否定してみるという姿勢が持てない)からどうしても抜け出せない西欧人の書いたものよりも、実際スリリングで面白いと感じる部分があった。まあ西欧人の書いたものもその偏見の現れようが笑える、ということはけっこうあるのだが、それはあまり若い人には勧められる視点ではない。

 

狭い視点で書かれている、おたくにしろ近代合理主義にしろ、本をけっこう読んでいたせいもあるし、逆に『気流の鳴る音』のような相対化の試みの強い本を読んだこともあるのだろう、こういうものの面白さというのは本当に未知の文明を一から知ったというような、とてつもない面白さがある。

 

ソマリランド民主化の成功の謎みたいなものが随所で解き明かされて行くありさまはまたスリリングだし、そこにある政治家、またある歴史過程があったからこそ今に至っているというのも、ある意味歴史の面白さみたいなもの、政治の面白さみたいなものを再認識させてもらえるものがあった。

 

自信を持って面白かったと言える一冊だったと思う。

水野和夫『人はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(1)世界史的転換を描こうとしていることと、デフレ下での経済成長という「近代の常識」の破れの指摘

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

 

水野和夫『人はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』を読んでいる。まだ読みかけだが、なかなか全体像が描きにくい。

 

この本は、一口で言えば、1995年以降、日本を含む世界は大きな転換期、近代の常識が、主に経済面でだが、経済面だけでなく、通用しない時代に入っている、ということを言っている。

 

この本は、経済面からのアプローチが中心なのだけど、歴史学的な知見が立論の補強に使われているため、むしろ歴史をやった者のスタンスから見ると解釈的にいかがなものかという気もする、というかああそういうふうに見たりするんだなというところがあったりする。「帝国」という用語も、どこまでが比喩として使われていて、どこまでが実態的な定義に基づいて使われているのか、今いちよくわからない。まあ、畑違いの分野の仕事というのは分かりにくいものだが、この本の特徴の一つは、そういう世界史的な転換というものを経済の側面から説明しようという野心にあると言っていいのかもしれない。

 

印象に残ったことはいくつかあるが、近代は国民国家=主権国家の時代だったが、今後は「帝国」の時代になるという。帝国というのは、金融帝国として成熟しつつあるアメリカと、17世紀当時の旧帝国の衣鉢を継いだ中国、ロシア、インド、可能性としてのトルコ、をさしている。(いわゆるBRICs諸国ではブラジルが入っていないが、ブラジルも普通の国民国家とは違う非均一的な特徴を持った国だから、いずれ入って来るのかもしれない。)

 

経済学というのは基本的に政策科学なので、何でも言ったもの勝ちのようなところがあって、歴史学のように一つ一つを厳密に積み上げていってはいないから、ある意味あんまり本気にとっても仕方ないかな、という感じのところもある。

 

ただ、一つの知見として面白いなと思ったところをいくつか取り上げて行ってみたい。


【デフレでも経済は成長した】

「デフレは問題である」という主張に対し、その「デフレの何が問題なのか」というところにいちいち反論しているところがへえっと思う。

 

2002年の経済財政諮問会議で指摘されたのは、1.実質金利が上昇し、その結果2.実質債務負担が高まる。3.賃金の調整が難しく、生産減少・雇用削減をもたらす。

 

デフレ期待により消費・投資の先送りが起こり、賃金や労働力が成長部門に円滑に移動せず、産業構造調整が遅れる。

 

資産価格が下落し、さらにデフレを悪化させる、という諸点だった。

 

実際には実質長期金利は低下していて、ということは債務負担は増えていない。賃金は、結局「非正規化」によって事実上の賃金調整が行われている。その結果、常用雇用も極端には低下していない。よって、結果的にデフレ下で経済成長が実現している。

 

で、結局経済成長が実現しても、産業構造調整は立ち遅れたままであり、逆に言えば、「改革なくして成長なし」ではなく、「成長しても改革は進まず」になっている、というわけだ。

 

つまり、著者の主張は、「デフレ脱却」を目指す政策、特に現在の「アベノミクス」は誤った政策であるということで、インフレ=経済成長は起こらず、バブルを引き起こすだけに終わる、ということになるようだ。

 

***

 

経済の本は何でもそうなのだけど、私には専門的な知識が不足しているので分かりにくいことが多い。そういう立場から理解しながら、何回かに分けて、自分の理解したところ、へえっと思ったところを指摘していきたいと思う。

【「責任を持つ」ことの意味、「責任をとる」ことの意味】

仕事に関する本をいろいろ読んでいて、「責任を持つ」というのはどう言うことかについて考えていたのだけど、それはつまり、

1.「その仕事をする」のは「自分しかいない」ということを認識し、

2.いかにしたらその仕事をやり遂げられるかを考え、

3.その方法・手段を実行することでその仕事をやり遂げる

ことだということだろう。

日本では、「責任をとる」と言うとすなわち「辞職する」という意味になってしまうが、これは本来おかしいだろう。責任を持つことが仕事をやり遂げることであるなら、その職を離れてしまったら仕事をやり遂げることが出来ない。

つまり、本来、仕事をやり遂げることが出来ない、あるいはできなかったとみなされた人は、「首になる」「解任される」べきであって、自分から仕事を放棄することが望ましいわけではない。

日本的な倫理観、潔さはつまり、自分自身を「その職にふさわしい人間ではなかった」と判断を下し、自分自身を処断する、ということであるわけで、であるならばそのあとに自分への処罰、たとえば謹慎とか、弁済とか、そういうことが伴うことになるだろう。

解任であれば、それは自分での判断ではないわけだから、自分で責任をとる=自らを罰する必要はない。つぎの仕事にすぐ移ることが出来るけれども、辞職=自らへの罰であるならば、それにふさわしい行動を自らに求めなければならない。

何となくその辺、特に「最近の日本」的な出処進退はどうも論理が一貫してない感じがして、「辞めればいいんだろう」的な感じになってしまっている感じがする。それは退廃というか堕落であるように思う。

天皇に叱責されて辞職した田中義一首相がただちに辞職し、意気消沈のあまり時を待たずして亡くなったこととか、極東軍事裁判で一切弁明をせず、文官として唯一死刑になった広田弘毅とか、まずはそういう「近代日本」的な美学というものがもう理解されなくなっているけれども、そういうものはそういうものとして首尾一貫はしていることは認識しておく必要はあるだろう。もちろん、「近代世界」的な「責任」観とは異なるけれども、日本的論理においては一貫している。彼らの辞職なり刑死というものは、「辞めればいい」とか「死ねばいい」という考えからはかけ離れたものなのだ。

であるのに、今なお「辞めれば責任を取ったことになる」という考えが幅を利かせているのは、やはり不健康だと思う。

辞職ならその人の傷がつかないが、解任だと傷がつく、という発想もプライドとか面子の問題だけに収斂しているようで何かおかしい気がする。

ということを少し考えた。

「グローバル経済」と「新中間層の没落」

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか (日経ビジネス人文庫)

 

水野和夫『人はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』を読んでいる。

 

まだ読み始めたばかりなのだが、現在起こっているグローバリゼーションの本質は長期的な利益率の低下による資本の利潤回復運動であり、ということは実質賃金を下げようとする「資本の反革命」=「労働者の黄金時代の終焉」を意味するという指摘はなるほどと思った。

 

重要なのは、雇用されることが不利になること、つまり雇用された中産階級=「新中間層」が没落するのは歴史の必然だと著者が考えていることだろう。これはいろいろなところで指摘されているように、これからは雇われる側よりも雇う側が有利な時代だ、という考え方と一致している。

 

まだ読み始めたばかりだが、この指摘は重要なので、メモしておきたいと思う。

京都造形芸術大学理事長・徳山詳直さんの日本復興構想の熱さ

昨日は京都造形芸術大学の専務理事の徳山豊さんについて書いたのだが、この人も高校からアメリカのミリタリー・スクールに留学したりして凄い人だなと思ったのだけど、この人のお父さん?と思われる徳山詳直さんというこの大学の理事長のインタビュー記事が月刊MOKU2012年5月号に出ていて、こちらがまたなんだか凄い人だった。

 

同志社在学中に日本共産党員として何度も逮捕され、獄中で吉田松陰の伝記を読んで、「昭和の松下村塾をつくる」と決意し、岩倉の山中で牛や豚を飼って牧場をして資金を稼ごうとしていたが、そこに国際会議場ができるということで土地の値段が暴騰し、それで得た資金で京都芸術短期大学を作ったのだと言う。

 

京都では「ゲイタン」と略称されるこの短大のことは、大原由軌子『京都ゲイタン物語」(文藝春秋、2009)で読んだことがあり、何となく親近感があったが、そんな凄い人がつくった大学だとは知らなかった。

 

 

京都ゲイタン物語

 

1991年に四年制の京都造形芸術大学となり、姉妹大学の東北芸術工科大学もつくったのは、「弥生の都」である京都と「縄文の都」である山形を結ぶことで日本列島に中心的な心棒を通し、「アメリカの植民地としての」首都東京の神宮外苑に、学徒動員の御霊を慰める外苑キャンパスをつくったのだと言う。

 

この大学の活動については今までよく知らなくて何で京都の大学が外苑に、と思っていたが、一人の理事長の執念と言うか(ある種妄想に近いような)巨大な思い(込み)によってそんな壮大な(縄文ー弥生ー近代という)三角形が描かれたのだということはある意味では現代の奇蹟に近いと思った。

 

この歴史観だとか構想だとか言うことに、学問的な立場からケチを付ける人はいくらでもいるだろうけど、この人の「日本を復興したい」という思い自体は全く否定できないものだと思うし、「縄文ー弥生の対比」と言う日本文化の形成の構図も今現在どれくらい有効なのかも私自身にはよくわからない(個人的には稲作文化そのものより、もっとあとにやってきた大陸の直接的文字文化の影響の方が大きい気がするのだが)のだけど、ある時代、ある世代の日本間のようなものが反映されている構想であることは間違いなく、多くの検証は必要とするだろうけれども、その志の篤さ(熱さ)のようなものだけは、まず素直に驚くべきものであると思う。

 

藝術立国

 

 

我々、ないし我々以降の世代には、なかなかこの種のとんでもないエネルギーのようなものはなかなかなく、この世代のそういう信念のようなものに、納得いかないまま振り回されて迷惑だと思う面は確かにある。

 

しかし彼らの世代は日本が一個独立の国として、どうやったら生きて行けるのかというのを真摯に問いかけてきた歴史があることは確かで、我々の世代も、安易に現状に妥協するのではなく、根本的なところから我々がどうして行くべきかを考えて行く必要はあるだろうと思う。

 

デフォルトをふまえた上で、デフォルトをも見直し、歴史もふまえた上で、未来に進むべき道を冷静に見極める。人一人の望むことと、多くの人の望むこと。

 

人間は、多くの、解決の難しい問題と今後とも向き合って行かなければならないと思うし、それを耐え抜く強さと、その解決に少しでも近づいて行く、あるいはそれとなんとか付き合って行く方法を見いだすことを楽しみとする、根本的なエネルギーをこれからも必要とするだろう。

 

これからのそういう大志が、今までと同じような徒手空拳の志で成し遂げて行けるものなのか、私にはよくわからないけれども、前の世代の熱い志を一つの鑑として、新たな時代をつくって行かなければならないと思う。