史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

ネルケ無方さんの『日本人に「宗教」はいらない』(ベスト新書、2014)を読んだ。日本人の精神と実践の関係について、目から鱗だった。

日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書)

 

ネルケ無方さんの『日本人に「宗教」はいらない』(ベスト新書、2014)を読んだ。

著者は、ドイツ・ベルリンの出身でドイツ人の禅僧。1968年生まれだから、ベルリンの壁の中で育ったということになる。祖父がプロテスタントの牧師という環境で育ち、母を7歳のときに失ったという。16歳で禅に出会い、生きるのが苦しくて仕方なかったのが、「一切は苦である」と言うブッダの教えに出会い、苦しくてもいいんだ、それが生なんだと救われたのだという。また、座禅を組んで姿勢を意識したことで、初めて「生きている」と言う実感を得たのだという。

正直、そんなに期待しないで読み始めたのだけど、すごく面白かったし参考になった。ドイツからやってきて日本の精神生活の中枢に入り込んでいる人から見える、日本人の今の心のあり方を語ってもらうと言うのは斬新な感じ。日本人の書いたそう言うものを読んでいても、どうしても「そうだよね、そうだよね」になってそのうち「それは知ってるよ」になり、「読んでも仕方ないや」になってしまうのだけど、この本には「そうだったのか!」と初めて気がつくようなことが多い。

仏像や寺社建築には魅かれない、つぶれてしまったらつぶれてしまったでいい、と言う感覚は日本人的ではないけれども、本質に魅かれるところがヨーロッパ人的なんだろうなと思う。仏像や建築の「息をしている感じ」が懐かしいしいい、と言う感覚はないんだなとは思った。

一番印象に残ったのは、世界的に一番受け入れられている仏教は、スリランカ仏教(上座部テーラワーダ仏教)でもチベット仏教密教)でもなく、日本仏教(特に禅宗)ではないかと言う指摘。スリランカ仏教はキリスト教と同様に他の宗教を受け付けないところがあり、また原理主義的で2000年間不変で現代にそぐわないと感じたし、チベット仏教は魔術や呪術のようなものが多く、「私には子供だましにしか感じられなかった」というばっさりな斬り捨て方が目から鱗だった。

日本仏教は非常にオープンであるところが魅力的で、禅はドグマとしてなんでもあり、こだわりのないところがいい、というところと、「実践の大切さを説いている」ところがいい、という指摘も目から鱗だった。

ドイツにいた頃はからだは脳を動かすための道具に過ぎない、と思っていたのだそうだ。しかし実際に座禅を組んでみて、最初は「自分が座っている」と脳で認識していたに過ぎなかったのがからだごと自分であることに気づかされ、また周囲の世界とのつながりにも気づかされて、姿勢を変えるだけでこれだけ認識が変わるのかと強い衝撃を受けたのだそうだ。

それから、これも目から鱗だったのが、学校での宗教的実践について。ドイツでは14歳になったときに大人の仲間入りをすることになり、このときに自分で宗教を選択し直せるのだと言う。プロテスタントで洗礼を受けていても、14歳で例えばカトリックを選択することも出来るし、無宗教を選択することも出来るし、そのままプロテスタントでいることも出来る。無宗教を選択するということは、「神はいない」と信じるということで、日本人的な適当な無宗教なのではなく、無宗教という信念、宗教みたいなものなのだと言う。

そして、その選択した宗派の宗教教育を学校でも受けるのだという。無宗教を選択したら哲学の授業を受けることになる。

ドイツではキリスト教を選択したらいずれかの教会に所属し、所得税の8%ほどの教会税を所得税と同時に徴収されるのだそうだ。そしてその教会税が各教会に分配されるため、教会の牧師や神父は公務員のようなもので、失業の危険はないのだそうだ。これはビスマルクの文化闘争によって教会財産が国家に没収されたからだそうで、それ以来の権利なのだそうだ。だから、キリスト教徒はもし年間50万の所得税を払うとしたら4万の教会税も払うことになり、それを20年払えば80万になるわけだから、日本で葬式のときに戒名料としてそのくらいのお金を支払うことになるのはそんなに高いわけではない、という話もちょっと面白かった。最もネルケ氏本人は戒名料でお金を取ったことはないし、葬式で経を読んだことも1度しかないということだが。

そんなふうに、ドイツでは宗教が体制に組み込まれて、個人の問題というよりは社会の仕組みの中で学校教育にも深く根付いているのだが、日本ではもちろん、宗教的なことが学校で教えられることはないわけだ。

しかし、と彼はいう。ドイツでは授業の上での宗教教育はあるけれども、実践はないと。

つまりどういうことかと言うと、日本の学校で教室を掃除したり、給食当番をしたり、部活動で協調性を教えたりすること自体が、意識せざる宗教教育だ、というのだ。

私などは、こういう実践の淵源は軍隊での共同生活にある、という意識があって、あんまり好きではない気持ちがあったのだけど、いわれてみたらそれはもともと、禅寺での雲水たちの共同生活に起源がある、という考え方は確かに成り立つのだ。

掃除も、当番を決めて一斉にやることで自分だけが、という意識がなくなるわけだし、「いただきます」と言って一斉に同じものを食べる、というのもいわば禅寺の風景だ。そのように行動することで実践や日常生活の大切さを理解し、「からだから心を育てていく」ということが可能になるというのは大変目から鱗だった。

最も、我々より年配の世代に取ってはそんなことは当たり前のことで、だから説明もちゃんとして来なかったのだろうけど、でもそういう風にいわれてみれば、こういう教育の大切さも良くわかる。しかし、その大切さは教員や親自体にもうすでに理解されなくなっているから、だから日本的な教育は崩壊してきている、ということなんだろうなとも思った。

変に国際化を目指すより、そういう面から学校教育を建て直した方が早いのではないか、という気がした。

その他葬式仏教の批判とか、いろいろ面白いことが書いてある。日常から自分という人間を建て直すとか、思想と実践の関係ということについて考える上で、この本はすごく参考になるのではないかと思った。

最近、面白いと思う本がほとんど読めてなかったのだけど、少しずつ出会うようになってきた。今まで見えてなかったところを探すと、そういう本があるのかもしれない、と思う。