史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

社会問題系のことについて、このブログでも少し書いてみようと思う。

社会問題系のことについて、ある頃から意識的に書かないようにしていたのだけど、(それがいつだったのか思い出せないが)何が正しいとか間違っているとかいうことではなくて、この問題とこの問題は同じ根を持っているとか、こういうことが関係してこういうことが起こっているというようなことは、書いてみてもいいのではないかと思うようになった。

 

ネットという場は、どうしても『正義』が『悪』や『不正』を攻撃することになりがちなのだけど、本当はそれはあまり面白くないし、リーズナブルでもない。本当に徹底的に正しい人間など存在しないということは、本当は誰もが分かっていることなのに、自分が正義の側に立って相手を糾弾出来ることがあると、それによりかかって行くことにカタルシスを感じる人が多いから、そんなものに乗っかったところで全く生産性はないわけだ。

 

こういう問題点がある、と訴えるのも、自分が当事者ではなくて、誰かのアナウンスに同情や共感してそれを広げるという目的で書いていたこともあるけれども、その信憑性が実は怪しいということもよくあることで、場合によってはそのアナウンスによって不当に利益を上げようという人もいるらしいこともまた分かって来ると、そう簡単にそういうものに乗るべきではないと思うようになった。

 

しかしだからと言って、世の中に問題が存在しないわけではなくて、当たり前のことだけど日々それで苦しんでいる人もいるし、それを見ても何が問題なのか分からなくて、非本質的なところで苦しんでいる人を非難する、というようなこともよくある。私自身も、あとで問題の構造が分かって、そのことに理解のない発言をしたとほぞをかむ思いをしたこともよくあった。

 

だから一番安全なのはそういう問題について発言しないことだけど、それもまた自分自身にとって何かが溜まっていくことにもなる。

 

ということもあって、ツイッターではときどきそういう問題について意見を書くことがあったのだけど、でもブログでは自粛をして来ていた。

 

しかし冒頭に述べたように、社会問題について、ことの是非をうんぬんするのは差し控えるとしても、問題構造としてこういうことがあるんじゃないか、という見方とかヒントとかいうのを何かのきっかけで得るということはあるわけで、そういうことについては思ったことを書いても害はないし、読んでいる人がそれによってその問題についての理解が深まったら、そこにはプラスしかないのではないかと思ったのだ。

 

というようなことを考えたので、とりあえずこのブログで、そういうことについても取り扱ってみようかと思う。