史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『物語ウクライナの歴史』を読んでいる。(1):ロシア・ウクライナが正統な後継の座を争う「キエフ・ルーシ」はどのように興りどのように衰退したのか。

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

 

この本には、現在のウクライナの土地で興亡を重ねた多くの民族や国家について書かれているけれども、現在につながる存在として大きく取り上げられているのは、キエフ・ルーシ、高校の世界史では『キエフ公国』として取り上げられる国家だ。

 

それ以前の、この本で扱われたウクライナに歴史上登場してくる民族の名を書き連ねてみる。キンメリア人、スキタイ人。それからギリシャの植民都市とそれが独立したボスポロス王国、それを征服したローマ人。スキタイ以後の草原の支配者はサルマタイ人、あとゴート族、フン族アヴァール族、ブルガル族、それからケルネソス中心のビザンツ帝国。それからルーシが出てくるまでの間はハザール汗国、ということになる。スキタイの存在が大きいが、後のロシア人やウクライナ人の祖先である東スラブ人はスキタイの支配下で農耕に従事していたと考えられているようだ。

 

8世紀以降、スカンジナビア人口爆発が起こり、一般にバイキングと呼ばれる人々が外の世界に向けて進出して行った。その中で現在のロシア・ウクライナの地に来た人々はヴァリャーグ人と呼ばれたが、彼らは自らをルーシと称し、東スラブ人の土地に東スラブ人に請われる形で国家を形成したと言う。そのうち、最も大きな存在で、広範囲に権威を及ぼしたのがキエフ・ルーシだった。

 

私がこの地域の歴史を学んでいて不思議に思っていたのは、キエフ公国はなぜ大国家なのに『公国』なのか、なぜ王国でも帝国でもないのか、ということだった。この本を読んで疑問が解けたのだが、『公』とは『クニャージ』の訳で、これはkingなどと同根なのだそうだ。だから本来『王』という意味なのだが、キエフ公国は兄弟相続から父子相続になり、あちこちにクニャージと称する支配者がたくさん出てくることになって、クニャージの息子や子孫までみなクニャージと称するようになっために価値インフレを起こしてしまったために、『公』と訳されるようになったのだという。

 

キエフ・ルーシではヴォロディーミル(ウラディミル)聖公が国教をキリスト教とし、その子ヤロスラフ賢公は婚姻政策をとって娘たちをハンガリー王、ノルウェー王、フランス王の王妃とし、息子の嫁にポーランド王の娘、トリール司教の妹、ビザンツ皇帝の娘をもらった。キエフ・ルーシは商業を存立基盤とする国家で、その商業ルートはヴァリャーグ人たちの開いた北方ルートと黒海をへてコンスタンティノープルに至るルートで、その導線の先にあるヨーロッパの諸王国と婚姻関係を結んだわけだ。

 

ヤロスラフ賢公の息子がたてたミハイル聖堂は黄金のドームの美しさで知られたが、スターリンに1936年に破壊されたのだという。ウクライナは独立後、まだ財政的に困難な時期に、この聖堂を再建した。これはウクライナの起源がキエフ・ルーシであることを確認し、またソ連スターリンの爪痕を消し去る上で重要だったからなのだという。ソ連による同化、即ちロシア化政策が諸民族のアイデンティティを損なった有様が見て取れるし、また「ロシアが破壊したものをウクライナが再建した」ことも意味のあることだったのだろう。

 

日本の高校の世界史で教えられているのは、ロシア視点の見方であり、ロシアは何の前提も必要としないかのように、キエフ・ルーシの後継者の地位はモスクワ大公国をへてロシア帝国に受け継がれたと考えているけれども、ウクライナ人はそれに異議を唱えているわけだ。

 

キエフ・ルーシの正統な後継者の位置を、モスクワ公国の後継のロシアと、キエフに位置するウクライナが取り合っている。つまり、どちらの歴史が古く、どちらが成り上がりかをめぐる神学論争が、現在の対立の背景にはあるわけだ。

 

キエフ・ルーシは遊牧民勢力であるペチェネグ人やポロヴェツ人と戦ったが、それらの負担もあり、徐々に衰えて行くわけだが、それが決定的になったのは交易の衰退だった。

 

キエフ公国の繁栄は、イスラム勢力の進出により地中海貿易が途絶し、スカンジナビアからキエフ経由でビザンツに至るルートが繁栄したためだったのだ。

 

だから十字軍以降、西欧と中東を結ぶ地中海航路が復活すると、キエフルートの重要性は低下することになる。そのため、キエフ・ルーシやその分家たる諸公国は商業よりも農民を支配することに力点を置くことになり、商人国家から地主国家に性格が変わっていった。そういう風にキエフ・ルーシの衰退を説明していて、これは大変わかりやすかった。

 

その(2)に続きます。