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史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

橋下市長の「出直し市長選」と各野党の「不戦敗戦術」を批判する:その議論の前提としての「戦後レジームの見直し」を「議論」すべきだ。

最近、憲法立憲主義、あるいは民主主義そのものを問うような話が多い。

 

それは大きく言えば、安倍首相の言う戦後レジームの見直し、という問題につながっていくだろう。

 

民主主義というものは、資本主義と同じように、近代の産物であり、近代国家として認められるためには、市場の自由と民主主義的な国家制度が、健全な国軍の守護と法の支配の貫徹のもと、成り立っていることが必要だとされている。ということは、世界的に見て衆目の一致しているところだと言っていいと思う。

 

日本という国は、この点においていくつか弱点を持っている。それはまず、民主主義が敗戦によって確立されたものであること。

 

日本では「五箇条の御誓文」の「広く会議を興し万機公論に決すべし」という宣言から、大日本帝国憲法下においても限定された形ながら民主制が実施されてきていたが、ボルシェビズムやナチズムの影響を受けて政党政治から挙国一致型の政権運営へと代わり、それが軍部中心に行われることで、軍部内の冒険主義的な動きと民間の動きが呼応して、アメリカに対する政策選択の幅が極めて自由のきかない状態になり、戦争に突入してしまった。

 

しかし果たして政党政治であれば戦争を防げたのかと言えば、本当はよくわからないと思うのだが、しかしアメリカはそのように考え、極めて徹底的な国政の民主化を求め、憲法として実現させた。そのなかでは国軍の不保持のように長い目で見て問題のある条文が懲罰的に加えられることになった。

 

我々の戦後民主主義をめぐる混乱は、このような条文が懲罰として加えられたという認識においてかなりのずれが国民の間にあることではないかと思う。

 

この条文が一時的な懲罰であったことは、アメリカ自身が後に再軍備を求めてくることによっても明らかだ。吉田茂はそれを逆手に取って憲法改正もせず軍備も基本的に持たないという路線で経済的な負担を軽くするとともにアメリカの軍事力を利用し、また日本国内で旧軍人が復権しないように図った。

 

それは一時的な政局操縦としては功を奏したかもしれないが、その時期に種をまかれた様々な問題が、数十年後に亡霊のように立ち現れることになった。まさにこれもまた歴史による呪縛と言ってもいいだろう。

 

そういういろいろな面から考えると、安倍首相の目指すものが妥当かどうかはともかく、「戦後レジームを見直す」こと自体は必要な作業であるように思う。

 

そのときに一番大きな問題になるのが、実は戦力の不保持という問題以前に、「日本における民主主義は是か否か」という問題があるということが、最近はっきりしてきたように思う。

 

私が思うには、戦力の不保持は明らかにアメリカによる「懲罰」だと思うのだが、「民主主義の押し付け」自体がある種の「懲罰」であると見なす、つまり日本では民主主義よりも家父長的な「伝統」を重視すべきだと考えている勢力が、思いのほか存在したということが明らかになってきたのだと思う。

 

家族制度における「家父長制」は、国家制度においても敷衍されていき、「民はよらしむべし知らしむべからず」と言った、つまり慣用的な意味での「封建主義」的な思想につながっているのだ。

 

近代日本の家父長制は、「国家有機体論」とか「家族的国家観」につながる。つまり、保守的な人の中には、日本国憲法や多くの民主主義国家で採用されている「契約的国家観」=「社会契約論」に基づくドライな国家観は、日本の「国柄」にあわないと考える人が思ったより多くいるようなのだ。

 

自民党の「憲法改正草案」に反映されているのは、そうした見方であるわけで、それが一定の支持を得ている(というかそんなに明確に反対しない人は結構いる)というのはかなり驚きだった。

 

正直言って法理的にこれじゃまずいんじゃないかと思われる部分が自民党憲法草案にはかなりあると私は思うし、法や制度を運営する思想そのものが、もっといろいろな場で検討されなければならないと思う。

 

話がかなりでかくなったが、つまり私は、橋下市長が戦術的に、自分の政策を実現するために議会構成を変えるための市議会解散を行うのではなく、自分が辞職して「大阪都構想」に対する市民の支持を問うと言うやや不条理な手段をとったことにも、また市長に反対する各政党が、「選挙の無意味さ」を訴えるために「不戦敗戦術」をとろうとしていることにも、強い懸念を感じるし、それはあってはならないことだと思うのだ。

 

橋下市長は構想実現のためには市長選挙ではなく、議会構成を変えるための市議会選挙を行うべきだ。しかしそれでは多数派獲得の自信が持てないのだろう。自らの支持を市民に取り付けることで議会に圧力をかける、というのはあまりに無理筋だ。

 

それに、各政党が「選挙の無意味さ」を訴えて不戦敗を図るというのは、どう考えてもおかしい。戦術に溺れ、政争に降りまわされて、原理原則を忘れている。

 

選挙こそが、議会制民主主義の、代表制民主主義の根幹をなす制度なのだ。それがいくら無理筋だからといって、すべての政党が参加しないというのであれば、民主主義の前提自体を否定することになるではないか。

 

これは、タイなどの国々でボイコット戦術が行われたりしていることと無縁ではないと思うが、日本の政治的伝統はそういう国々とは違うのだ。

 

選挙で戦わない政党が、なぜ国民に投票に行けと要請できるのか。

 

あの選挙とこの選挙と、どう違うというのか。大義のある選挙は参加し、ない選挙は参加しない。そんな便利な制度なのか。

 

私は野党の動きには、幕末の「八月十八日の政変」以降の朝廷の威信低下と同じものを感じる。

 

尊王攘夷派を朝廷から一掃し、幕府支持の公武合体派が行った八月十八日のクーデターで、政権を取った側は「今まで出された勅命尊攘派が出した不当な勅命だから従うな」と宣言し、「勅命」自体の価値や信頼性を大きく損ねる結果になった。結局この時点から、幕末の争乱は意見を戦わせるよりも、軍事力や警察力の戦いになっていく。正統性が失われたら、決着を付けられるのは軍事力だけになってしまうからだ。

 

参加したりしなかったり、民主主義国家において選挙というものはそんな軽いものではないはずだ。政治のプロである政治家たちが、その重さを見誤っているのは、自分たちがプロであるという誤った自負を持っているためではないだろうか。

 

勝ち負けが重要なのではない。今大事なのは原則を通すことだ。原則を変えるための議論が十分に行われていないうちに、どんどん現実を先行させるやり方は、日本らしいと言えばらしいのだが、誰もが思いがけない事態にたどり着いてしまった、第二次世界大戦前の政治過程の二の舞を踏む恐れがないとは言えない。

 

この際には戦争が起こったが、今回はいったい何が起こるのか、それすら分からない。

 

市長にも各党にも、方針の再検討を求めたいと思う。