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史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『歴史と地理』(山川出版社)第680号(日本史の研究247)で「山丹・山丹交易について」を読んだ。

『歴史と地理』(山川出版社)第680号(日本史の研究247)で「山丹・山丹交易について」を読んだ。

これは「賢問愚問 解説コーナー」というシリーズで、「山丹交易の担い手は、どこに住むどんな民族なのでしょうか。また交易の実態を具体的に教えて下さい」という質問に答えたものだ。

これは、江戸時代中期から末期にかけて、北海道・樺太沿海州北部・アムール川黒龍江)下流域に及ぶ広大な地域を舞台にして行われた多くの民族を介しての交易の実態についての解説で、大変興味深かった。

まず、民族の配置として、北海道から千島南部(択捉島まで)が北海道アイヌの居住域、樺太南部が樺太アイヌの居住域、中部がウィルタ、北部から間宮海峡を渡ってアムール川北岸地域がニヴフの、そしてアムール川下流域から清朝の出先機関がおかれたデレンまでがウリチの居住域だ、ということが示される。

ウィルタとは日本ではオロッコと呼ばれた民族であり、ニヴフとはギリヤークと呼ばれた民族だ。ウリチと言う民族は初めて聞いたのだけど、山丹人と呼ばれるのは基本的にこのウリチのことを指しているのだと言う。ウィルタとともにツングース系の民族(言語)に分類されている。ニヴフ語は独自性の強い言語で、アイヌ語もまた孤立した言語とされている。

これらの地域は、大陸側は間宮海峡に至るまで17世紀末のネルチンスク条約以来清朝の支配が及んでいる地域であり、樺太には「北蝦夷地」として日本の松前藩・幕府の支配も及びつつあった。

ここで行われていた交易は、主にアイヌと山丹人の間で行われたもので、アイヌ側からはテンやカワウソ、狐の毛皮(日本では小皮類と呼ばれた)や日本本土から渡った鉄鍋や小刀などの和製品が持ち込まれ、山丹側からはいわゆる「蝦夷錦」がアイヌ側に持ち込まれた。これは実は清朝の官職に応じた絹織物の官服のことで、アイヌ松前藩を介して日本社会でも一般に流布し、珍重された。

それが貴重だった理由のひとつは、当時の日本が清朝とは国交を結ばず、「朝貢」を行っていなかったため、貿易の窓口である長崎からそれらのものが入ってくることはなかったからだ。鎖国日本の「四つの口」のうち長崎(対オランダ・中国)と対馬(対朝鮮王朝)からは入って来なかったことはなかったということになる。しかし、薩摩藩支配下の琉球王国は清に朝貢していたためため、冊封時には琉球王に下賜されていたわけだ。しかしそれが薩摩藩経由で日本社会に流布することはなく、(薩摩藩が独占したのか、あるいは興味がなかったのか)四つ目の口である蝦夷地を介して日本社会に入って来るものだったというのが興味深い。

サハリンアイヌはこのようなダイナミックな北方における国際交易の中心になっていたのだが、18世紀末以降山丹人との交易で負債が恒常化し、人身を拘束されたり連行されたりするものが続出したのだと言う。それが最上徳内サハリンにおける調査で判明し、幕府が対応することになったのだと言う。すでに18世紀末という時点において幕府が樺太アイヌの債務問題にまで対応しようとしていたというのはある種の驚きだと思った。

幕府は樺太南部を含む蝦夷地=松前藩の領地を上知し、そこに松田伝十郎と間宮林蔵を派遣して、その結果間宮海峡の踏破とデレン訪問があったのだという。

そしてへえっと思ったのは、1790年までは山丹交易の拠点はソウヤ(稚内か)にあったのが樺太西南端のシラヌシにうつし、樺太アイヌの負債を1812年までに幕府の公金によって清算して、以後幕府が直接山丹交易に当たることとなって、樺太アイヌが交易に関与することはなくなった、ということだ。1853年の記録によると4艘の舟で66人の山丹人が来航し、青玉・鷲羽・「蝦夷錦」その他が持ち込まれ、日本側からの毛皮や鍋、ヤスリなどと交換されたのだと言う。

その結果、日本側は毛皮を調達する必要が生じたわけだ。もともと樺太アイヌが負債を抱えることになったのは、毛皮が十分調達出来なかったことによるそうで、幕府主導で行われたその調達は、北海道・南千島樺太全域の場所請負人(各地で交易権を請け負っていた商人)、果ては北前船の派遣元である加賀や能登の問屋商人にも割り当てられたのだそうだ。

つまり、山丹交易というのは清朝側の辺民政策(支配下に追いた諸民族に官職や官服を下賜する)と幕府の蝦夷地政策によって機能していたものだ、というのが興味深い。最後の交易は1867年、つまり大政奉還の年に行われたと言うからまさに江戸時代とともに終わったわけだ。またアムール川下流域や沿海州も1858・1860年の天津・北京両条約(第二次アヘン戦争講和条約)によりロシアの支配下にうつり、それによって樺太にもロシアの影響力が強く及んだために、結局1875年の樺太千島交換条約で日本は樺太の支配権を放棄することになった。こういう状況の中では山丹交易といったより前近代的な交易は成立し得なくなって行ったということなのだと言う。

これらのテーマは時折取り上げられることはあるけれども、ここまで整理された形で読んだのは初めてだったので、非常に面白かった。