史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『新・戦争論』における池上彰さんと佐藤優さんの絶妙のマッチング(感想その一)

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)

池上彰さん、佐藤優さんの『新・戦争論』(文春新書、2014)を読んでいる。久しぶりにブログを書きたくなったので書いてみることにした。

もうだいぶ前になるが、ネット上でウェブ日記⇒ブログという流れでずっと書いていた頃、政治的な動きに関してもいろいろ書いていたのだけど、ウェブ上での議論があまり生産的でなく、ブログでは「そういうこと」について書かないというルールを自分に作って、「そういうこと」はときどきツイッターなどで単発的に書くだけ、ということにしていた。

昨年の暮れからは新たにマンガの感想を書くブログをはじめ、そちらの方が忙しくなってしまい、また身辺雑記的なことや本の感想を書くことにあまり意味を見いだせなくなってきただけでなく、アクセス数においてもマンガブログとは圧倒的に差があるようになってきて、どちらの面からもブログを書くのに積極的な意味が見出せなくなって、要するに「書けない」感じになっていた。

その間、実際のところ本を読んでも面白く感じなくなっていて、買いはしても最後まで読めない、ということがかなり長く続いていた。最後まで読んでも感想を書いたりする気にもならない、という感じが長く続いたのだ。

それは自分の意識の中で、「自分の意識のありかたの問題」とか「フィクションへの志向」が強くなっていて、世界情勢や歴史の分野、つまり「事実」の分野に対する意識に対し、すごく否定的になっているところがあったのだなと思う。

しかし、たまたま買ったこの『新・戦争論』を読んで、そう言えば以前私はむしろ「事実」には関心を持てるけれどもフィクションは面白いと感じない、という時期があったことを思い出した。その頃はマンガは読んでいても80年代ニューウェーブの流れを汲む諸星大二郎さんや近藤ようこさんなどに限られていて、新しい作品に目を向けていなかったのだった。

どうしてこういう極端な志向の展開が起こるのか、そのあたり自分の中が謎なのだけど、そのバランスの落ち着きどころが少しは見えてきたのかもしれないと思う。

もともと私は何でも面白がるタイプなのだけど、一般性の強いものが基本的には好きだし、自分の志向に関しても、文章に関しても、実際には大衆的というのも変だが、少なくとも特殊な嗜好の強さというよりは「論理に基づいた一般性」のようなものが自分の基本にあるように思う。その論理そのものは、自分の身体性のようなものに依拠しているところが大きいので必ずしも「常識的」なものではないのだけど、だからと言って理解を拒絶したような特殊なものではない。

「専門性」というものを細かい分野に限り、まだ未開拓の分野へと突き詰めて行ってしまうと「特殊性」の強いものになって、一般性からかけ離れた痩せたものになるか、その特殊性にたてこもる心性に囚われてしまうことがあるわけだけど、私は結局そういうことはできなくて、どこかで定期的に一般性に戻って来る、「揺り戻す」ところがあるのだろうなあと思った。その周期は実はけっこう長くて、ある分野に何年も沈潜しているうちに時代が変わってしまうという感じになっていて、その沈潜、没入によってもともと自分自身が持っている一般性=時代性の感覚が弱くなってしまうところがあるんだなあと思った。

今はだから「フィクションの世界への没入」から「事実の世界の再発見」の過程にあるのだなと思う。それは「再発見」であって「回帰」では多分ない。「どちらかだけ」というのは、やはり自分には不自然な状態だと今は思うのだ。そういうふうにして自分の中の全体性を回復しながら、自分の今やるべき仕事を見つけていきたいと今は思っている。

さて、前置きが長くなった。

この『新・戦争論』という本の面白さは、池上彰佐藤優という二人の著者=対談相手の「ミスマッチ」感にある、と言っていいだろう。池上彰さんは元NHKのアナウンサー・解説者で、複雑な政治・社会現象を子どもにもわかる平易な言葉で説明するという、現代においてはとても求められる能力でありながら今までは軽く見られがちだった仕事を、率直で鮮やかな手さばきで切り分けて世間を瞠目させることによって、この仕事の意義を世間に広く知らしめた、そういう意味で「よくわからないもの=偉いもの、最先端、高度」という権威主義の足元を掬う反権威主義的な存在でありながら、あまりに一般への通路を失った専門家たちからも歓迎されている、独特な地位を築いている人だと言えると思う。

一方の佐藤優さんはもともとロシアを専門とするノンキャリアの外交官で、小泉内閣時代の内閣と外務省の暗闘の中で弾き飛ばされた、異端のインテリジェント・オフィサーという感がある。「外務省のラスプーチン」という言葉ももう言い古されているけれども、私も「国家の罠」から始まる初期の佐藤さんの著作はかなり読んだ。しかし佐藤さんはなかなか個性の、違う言い方をしたら「あくの強い」人で、小林よしのりさんが暴露した「SAPIO」連載中の出来事とか、佐藤さんを特集した「AERA」に対し佐藤さんが強い不満を述べていた話などを読んで、そのあたりからその強い個性の発する影響力をあまり受けない方がいいと思うようになり、あまり読まなくなった、という経過がある。

実際のところ、佐藤さんの提示する情報というものはあまりにいわゆる「ディープ」なものが多く、「裏」を取るのは困難だったりするものが多いから、実際のところその情報が正確なのかどうかも自分としては確信が持てない、というものが多く、そのあたりからも敬遠したくなるところがあった。

この本の裏表紙側の帯には池上さんの「どうしてこの二人が?と思うでしょうが、私は佐藤さんの著作を愛読しています。ディープな情報が素晴らしい」という言葉があり、つまりはある意味佐藤さんの発言を池上さんが否定せず、受け入れている記述によって、佐藤さんの情報がオーソライズされている、という感があるなと思った。

実際、佐藤さんの情報の裏をネットでわかる範囲だけでも取ろうと思って検索してみると、そのネットの情報の情報元が佐藤さんの著作であることが多く、本当にディープな情報を開示しているんだなと思う。

もともと大学の文系の専門家というものは、一般人より遥かに欧米の情報に容易にアクセスできることによって、欧米の最新情報を紹介する「紹介屋」みたいな側面があったわけだが、ネットが情報の壁をかなり取り払った現代では、英語(をはじめとする欧米語)さえできれば専門家も敵わないような情報を取って来ることが比較的容易になっているわけで、文系専門家の「紹介屋」としての機能に対する評価はかなり下がってしまった。しかし佐藤さんのような本当にコアな、ディープな情報はやはり限られた人にしか取れないわけで、その「究極の紹介屋」みたいな部分が、佐藤さんの圧倒的な強みを形作っている面があると思う。

しかしインテリジェントの世界にはその世界の仁義というものがあるから、出てくる情報にもやはりそうした「癖」のようなものがあり、そのあたりの吟味が難しい、という難点はあるようには思う。

まあだから、そういう癖のある佐藤さんの情報を池上さんの凄みのある解説力によって吟味しオーソライズし構築することによって一つの世界理解を組み立てる、ということが出来ていれば、この本は成功だということが出来るのだと思う。

さて、具体的な内容に行く前にかなり長くなってしまったので、個々の内容に関する感想はまた次回以降に書こうと思う。

章建ては序章プラス8章の構成で、日本の特殊性、世界の危険、世界理解における民族と宗教の重要性、ヨーロッパ世界の後ろ暗い部分、イスラム国とイスラムイスラエルの問題、朝鮮問題、中国を巡る尖閣問題とウィグル問題、アメリカの問題、情報の取り方の問題、という形で取り上げられている。まだ読み切ってないけれどもそれぞれ面白いところが多いので、何回かに分けて書いて行きたいと思う。