『物語ウクライナの歴史』を読んだ。(3):ウクライナは、思ったよりずっと壮大な歴史を持っていた。
『物語ウクライナの歴史』読了。書き始めた当初は、(3)としてコサック国家の時代、(4)として帝政ロシアとオーストリア帝国の支配下の時代、という具合に書いて行こうと思っていたのだが、そこまで詳しくやっている余裕がなくなってきたので(3)としてひとまとめに書くことにした。
しかし現代ウクライナの歴史の上で、16−17世紀のコサック国家と1917-20年頃の独立ウクライナ政権=ウクライナ中央ラーダの存在は大変重要なので、その辺りは明記しておこうと思う。
ウクライナの歴史は、思ったよりずっと壮大だった。キエフ・ルーシ時代からリトアニア・ポーランド支配下の時代をへて、コサック国家の自立からロシア帝国への従属へと続くあたりはある意味牧歌的なのだが、19世紀中頃に産業革命が始まってからは風雲急を告げてきて、第一次世界大戦からロシア革命当時、特に1920年代前半の壮絶なウクライナの土地の奪い合いにはものすごいものがあった。
「ウクライナ中央ラーダ」は現在のウクライナ国家の祖となる形を作っていて、彼らの定めた国旗、彼らの定めた国歌、彼らの定めた国章が現在でも使われている。
ウクライナには残念ながらなかなか英雄と呼べる人材、あるいは求心力を持つ強力な組織を作れる人材が出て来ず、そのために他国の支配下に置かれる時期が長かったような印象を受ける。広大な土地、多様な地域性、複雑な民族構成や様々な国の元での支配(ロシアに支配されていた地域が大きいが、場所によってはオーストリアやポーランド、チェコやハンガリーやルーマニアなどに支配されていたこともあった。)や他国の強力な影響力に圧倒されることも多かったと言えるだろう。
スターリンはウクライナにものすごい災厄をもたらした人物だと言えるが、しかし彼の拡張政策で上記のウクライナ人居住地域はソ連支配下のウクライナ社会主義共和国に併合されて行くことになり、ソ連崩壊後はまるまるウクライナのものとなった。棚ぼた的な統一を成し遂げている。
現在のクリミアの状況は、ロシアはかねてから狙っていた状況だったのではないかと思うが、歴史的な観点から見てクリミアの支配権がロシアにあるのかウクライナにあるのかの判断は難しい。現況はウクライナだから正当な理由なく現状変更は出来ないというのが国際法上はいえるけれども、クリミアの状況はなかなかはっきりとは伝わって来ず、ロシア側の確立した事実上の実効支配を覆すのも難しい状況だと言えそうだ。
ウクライナは広大な黒土地帯であることから広い面積の肥沃な農地を持ち、ヨーロッパの穀倉地帯であるとともに石炭や鉄鉱石などの資源にも恵まれ、であるからこそソ連・ロシアに取っての生命線であったわけだ。そのウクライナがEUに取られるということはロシアに取っての死活問題だ。そしてそれ以上に軍事的拠点であるクリミアがEU側に取られることはなんとしてでも避けなければならないと言う判断もあったのだろう。
この本で印象に残ったことのうちの一つは、ロシア革命後のウクライナ、特にキエフをめぐる激しい争奪戦で、キエフの支配者は第一次大戦末期からボリシェビキの支配確立までのこの期間に14回も交代したのだと言う。帝政ロシアが崩壊したあとケレンスキーの臨時政府、ボリシェビキ、ポーランド、ドイツ、ウクライナ中央ラーダ、コサック国家=ヘトマン国家を名乗る政権、などだ。
もう一つ印象に残ったのは先にも書いたがスターリンのもたらした災厄だ。スターリンは民族主義を徹底的に弾圧したが、その主要な標的はウクライナだった。
スターリンは「民族問題とは農民問題である」という言葉を残しているが、その言葉通り、ウクライナの民族主義の温床とも言える農民たちを集団化することで土地から切り離した。これは徹底して行われたために、農業生産がかなり落ち込んだ。しかしウクライナから移出される穀物の量は変わらなかったため、1933年前後に大飢饉が起こり、穀倉地帯のウクライナで350万人が餓死したのだと言う。この時期もソ連は穀物輸出を続けており、これはスターリンによる意図的なジェノサイドだったと言う見解もあるのだという。
また1930年代には激しい粛清が行われ、ウクライナの共産党員の37%にあたる17万人が粛清されたと言う。タタール人がクリミア半島から追放されたのもこの時期だ。
クリミアの歴史を一言で言うと、「豊かな土地に住む人々の苦難の歴史」ということになると思う。それは1986年のチェルノブイリ事故まで続いている。そして自治と独立を求める被抑圧民族としてのウクライナにあって、その時々の歴史の主人公というのはやはり「ウクライナの独立」を求めて戦った人、ということになる。
ポーランドの支配下でコサック国家の自立のために戦った16世紀のフメリニツキー。彼はポーランドから自立しながら、モスクワ公国の保護をあおいだために、それ以後のウクライナのロシアへの従属を決定づけることになった。
ピョートル大帝の時代のマゼッパ。ピョートルの腹心でありながらウクライナの独立を目指して大北方戦争でスウェーデンの側につき、結局独立を勝ち取れなかった。
19世紀ウクライナ最大の文学者と言われるシェフチェンコ。文学語としてのウクライナ語の確立に尽くした。
それから中央ラーダの指導者、フルシェフスキーと軍事面の指導者ペトリューラ。指導者として印象に残る人々はこうした人々だ。
プーシキンを読んでいて印象に残るのはロシアの土地の広大さだが、ウクライナも同様に茫漠とした広さを持っている感じがする。国土の面積はヨーロッパのどの国よりも広く、人口はフランスに匹敵する。そしてどこに国境があるのかわからない漠然とした国土の広がり。こういう国が近代国家としてのまとまりを持って行くことは難しいだろうなあという感じがする。
今ウクライナの暫定政権はEUよりの立場を取っているが、東部ではロシア系の住民も多い。民族間の対立も先鋭化しているという話もあり、今後どう展開して行くのか予断を許さないところがある。
しかしウクライナには、なんと言うか南欧的な明るさのようなものがあって、そこが北方のモスクワの空気とは違うなという感がある。
これからも苦難は続きそうだが、その明るさでこの苦境を乗り切ってほしいものだと思う。