史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『物語ウクライナの歴史』を読んでいる。(2)リトアニア・ポーランド支配時代は、現代ウクライナにつながる宗教問題の種がまかれ、一方でコサック国家の成立を準備した時代だった。

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ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(リトアニア大公・ポーランド王)

 

(その1)からの続きです。

 

キエフ・ルーシは1240年にジョチ・ウルス(キプチャク汗国)にキエフを征服されて滅んだ。その後継国家がハーリチ・ヴォルイニ公国として1349年まで存続した。この国は『最初のウクライナ国家』という位置づけがあり、その領域はウクライナ西部からベラルーシ南部にかけての地域だったが、最終的には東部をリトアニアが、西部をポーランドが併合して消滅した。

 

その後、ウクライナの地に進出してきたのはリトアニアだった。リトアニアはバルト語族で当時は非キリスト教徒であり、1246年にミンダウガスが最初の統一されたリトアニアの支配者となり、1316年にリトアニア大公となったゲディミナスはベラルーシウクライナの領域に進出し、『リトアニアとルーシの王』と自称した。ゲディミナスはリトアニア中興の祖と言われた。

 

リトアニア大公国はルーシ語を公用語とし、ルーシ化が進んだため、キエフ・ルーシの後継国家はリトアニアであるとする見解もある。

 

ゲディミナスの孫のヤガイラスはポーランド王の娘と結婚することでリトアニア大公家とポーランド王家は合同した。1385年のクレヴォの合同である。リトアニア人はカトリックに改宗し、旧リトアニアの支配領域も急速にポーランドの影響が増して行くことになった。ちなみにこのヤガイラスを祖とするポーランドの王朝がヤゲロー朝である。

 

その後もリトアニアポーランド同君連合ではあっても別の国家ではあったのだが、1569年のルブリン合同によってポーランドリトアニア共和国となった。ウクライナの地もポーランド化が進んで行くが、この時代に農民の農奴化がすすむことになった。

 

そしてカトリック国のポーランドに支配されたことによって、ウクライナの地では上層階級がカトリックに、下層階級が正教になるという構造になった。またポーランド正教会カトリックに合同させようとして失敗し、ユニエイト=東方典礼カトリック教会という存在を生み出した。ウクライナの宗教的な多様性の起源はこのときにさかのぼることになる。

 

その一方で、クリミア半島にはジョチ・ウルスの後裔のタタール人国家としてクリミア汗国が残り、また北方ではモスクワ公国がモンゴルの支配を利用しつつ勢力を広げて1480年イヴァン3世がジョチウルスから自立し、全ルーシの君主と称した。クリミア汗国はやがてオスマントルコの支配下に入り、スラブ人の奴隷狩りを行ってトルコに売りつける奴隷貿易によって繁栄したと言う。

 

そうした環境の中で、ウクライナの地は奴隷狩りにさらされ、人口が希薄になって行ったが、もともと肥沃な土地だったため、ポーランド支配の西方から逃れた冒険的な人々が住み着くようになり、ドニエプル川下流の川中島ザポロージェ・シーチと呼ばれる要塞を作って割拠するようになった。この人々がコサックと呼ばれるようになった。

 

以上のように、リトアニアポーランド支配時代は、現代につながるウクライナの諸問題の発生の時代でもあり、最もウクライナらしいコサック国家の時代を準備する時代でもあったといえる。

 

この時代は、ウクライナ人は主人公ではないため、支配者である周辺の諸国や諸民族の影響を強く受けながら、複雑な宗教構成や社会構成が形作られて行くことになったということがよくわかる。というか、その辺りがよく読まないとわからなくて、ただ受け身なだけの存在に見えてしまう。

 

しかし次の時代に出てくるコサック国家の存在が、ウクライナらしさというものを十分に見せることになるため、この時代のウクライナは雌伏の時代、準備の時代であり、ロシアとは違う民族性が形成されて行った時期だということもできる。

 

ウクライナは他国に支配されながら独自の進化を続けたと言うのがウクライナの主張であり、他国に支配されていたウクライナを取り戻してキエフ・ルーシ以来の統一を取り戻したというのがロシアの主張だということになる。

 

そういう意味では、清朝末期以来、大陸の支配を受けずに独自の歴史を歩んできた台湾の歴史に、ある意味重なるところがあるように思った。

 

(その3)に続きます。