史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

【「責任を持つ」ことの意味、「責任をとる」ことの意味】

仕事に関する本をいろいろ読んでいて、「責任を持つ」というのはどう言うことかについて考えていたのだけど、それはつまり、

1.「その仕事をする」のは「自分しかいない」ということを認識し、

2.いかにしたらその仕事をやり遂げられるかを考え、

3.その方法・手段を実行することでその仕事をやり遂げる

ことだということだろう。

日本では、「責任をとる」と言うとすなわち「辞職する」という意味になってしまうが、これは本来おかしいだろう。責任を持つことが仕事をやり遂げることであるなら、その職を離れてしまったら仕事をやり遂げることが出来ない。

つまり、本来、仕事をやり遂げることが出来ない、あるいはできなかったとみなされた人は、「首になる」「解任される」べきであって、自分から仕事を放棄することが望ましいわけではない。

日本的な倫理観、潔さはつまり、自分自身を「その職にふさわしい人間ではなかった」と判断を下し、自分自身を処断する、ということであるわけで、であるならばそのあとに自分への処罰、たとえば謹慎とか、弁済とか、そういうことが伴うことになるだろう。

解任であれば、それは自分での判断ではないわけだから、自分で責任をとる=自らを罰する必要はない。つぎの仕事にすぐ移ることが出来るけれども、辞職=自らへの罰であるならば、それにふさわしい行動を自らに求めなければならない。

何となくその辺、特に「最近の日本」的な出処進退はどうも論理が一貫してない感じがして、「辞めればいいんだろう」的な感じになってしまっている感じがする。それは退廃というか堕落であるように思う。

天皇に叱責されて辞職した田中義一首相がただちに辞職し、意気消沈のあまり時を待たずして亡くなったこととか、極東軍事裁判で一切弁明をせず、文官として唯一死刑になった広田弘毅とか、まずはそういう「近代日本」的な美学というものがもう理解されなくなっているけれども、そういうものはそういうものとして首尾一貫はしていることは認識しておく必要はあるだろう。もちろん、「近代世界」的な「責任」観とは異なるけれども、日本的論理においては一貫している。彼らの辞職なり刑死というものは、「辞めればいい」とか「死ねばいい」という考えからはかけ離れたものなのだ。

であるのに、今なお「辞めれば責任を取ったことになる」という考えが幅を利かせているのは、やはり不健康だと思う。

辞職ならその人の傷がつかないが、解任だと傷がつく、という発想もプライドとか面子の問題だけに収斂しているようで何かおかしい気がする。

ということを少し考えた。