史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

大学、ないし教育はどうあるべきか:人間の真の豊かさと「手のひら芸大」の試みー「逸脱への恐れ」を超えて

月刊MOKUの2014年1月号を読み返して、特集の『豊かさとは何か」の対談で、『知と藝術のジャングル 人間の真の豊かさを求める「教育再興論」』と題して徳山豊さんが話をされていた。徳山さんは京都造形芸術大学東北芸術工科大学の専務理事をされているのだそうだ。

 

最初に徳山さんの高校時代の話が取り上げられているが、徳山さんは高校からアメリカに留学し、ボストン大学の経営学を卒業されている。高校はインディアナ州のミリタリースクールで、完全に軍隊的な厳しい教育が行われている高校だったそうだ。すべての学生がランク付けされ、上官に対する敬礼が義務づけられ、何事も連帯責任。そのなかで、唯一の日本人として恥ずかしくない行動を心がけていたのだそうだ。そうすることで模範生徒として学外の生徒にも訪問される部屋で暮らす生徒として選ばれたのだという。

 

彼の考えでは大学は「ジャングル」なのだという。生きるのに必要なものはすべて揃ってはいるのだが、選択を間違えたり工夫が不足したら死につながる。そこでどう生きるために必要なものを選択し、自分の営みを作り上げて行くための場にしなければならないと考えているのだそうだ。

 

つまり、「必要なものがあること」が豊かなことなのであり、「便利であること」が豊かなことではない、

というわけだ。ありとあらゆる考えを持って大学に来る学生たちに、それを受け入れ、その考えを展開させて生きて行くことができる力を伸ばして行くことができる、それが「大学としての豊かさ」だと。

 

その一つの理由として、ひとりひとりの人間に対して「どういう人間になってほしい」という気持ちが必要だと言う。

 

本の学校の特徴として、「逸脱をいやがる、恐れる」ところがあるというのだ。

 

それはつまり、同調圧力ということだろう。人は一人一人違うのだから、学びのペースは同じではないし、また興味関心の方向も違う。それなのに授業の進度を同学年で同時進行させようとか、学年構成も全体が同じ年齢でなければならないとか、必要以上にそろえすぎるのは確かだと思う。

 

日本人が逸脱を恐れるのは、逸脱が「悪いこと」だという意識が強いからだろう。だから少しでも違う生徒を「いじめる」ことが正当化される。子どもの世界においては「正しい」ことが凄く強力な作用を持っているので、「逸脱している方が悪い」のだから「いじめられるのも仕方がない」ことになってしまうわけだ。

 

しかし考えてみれば分かるのだが、スタンダードを決めたところで、全部がスタンダード通りの人間なんているわけがないのだ。みな多かれ少なかれ「逸脱」を持っている。しかしそれは「悪い」ことだという意識を持っているから、逸脱することを恐れていて、逸脱しないように自分を抑えたり、ないしはそれを隠したり、ない振りをしたりすることがとても多いということになる。

 

子どもがそうしてしまうのは、大人の社会がそうだからだろう。日本の社会は、「粒が揃っている」ことがいいことで、大きすぎても小さすぎてもよくない。

 

しかしそれに必要以上に縛られていては、「生きている気がするように生きる」ことはできないだろうと思う。

 

ひとりひとりの学生に大して、「どういう人間になってほしい」というそれぞれに対する思いを持つということは、その学生ひとりひとりのことをよく知らなければいけない。どういう望みを持っているのか。それはどうしたら実現できるのか。

 

そんなことは当たり前だと思っていたけれども、日本の場合は教師も「外れて行く」ことをいやがるし、学生自身も「変わったこと」をすることをいやがる。無意識のうちに「自分らしく生きる」ことよりも、「周りと同じように生きる」ことを求めてしまう傾向はどうしてもあり、そうやって「粒が揃った社会」、「逸脱した人間がいじめられても不自然だと思わない社会」が再生産されていっているのだなあと思う。

 

人より早く自分のやりたいことを始める、というのはある意味逸脱だ。また、人よりゆっくり考えてから始める、というのも逸脱だ。だから就職活動はみな横一線で、ということになってしまう。それも多大な弊害を生んでいる。

 

何より大きな弊害は、その人が成長しようと思う、その決意したときに直ちに飛び立てるような態勢を、日本では用意できていないということだ。巣立ちの、旅立ちの時期が狂わされてしまうことで、変にくすぶってしまって、力を伸ばしきれずに終わる、と言うことが、日本では凄く多いような気がする。

 

本当に必要なのは、「自分がなりたい自分になるために、自分を成長させることができる場所」なのだと思う。

 

大学はどうあるべきか、という問いに対して、徳山さんは「自分を成長させたい人のための大学」であるという根本的なことを見失うべきではないと言う。

 

最後に、京都造形芸術大学の通信教育について触れていたが、これはネットでも時々みかける「手のひら芸大」のことだった。この記事を読むまでは、この「手のひら芸大」がどういう理念で運営されているのかよくわからなかったが、なるほどそういう理念で運営されているなら「自分を成長させる」ためには有効な教育を受けられるだろうと思った。

 

そして、大学に「すでに」ある様々な資源を有効活用して行くことによって、日本の知的レベルをもっと引き上げ、様々な知が入り交じって創造が生まれる場所をもっと作って行くことが、確かにできるのではないかと思った。

 

行われていることは凄く面白いと思う。今後の展開と、更なる出会い、発展が見たいと思った。