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史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

「マスゴミ」はなぜ「情報を操作する」のか

歴史と現代について考えるために

「進撃の巨人」の諫山創さんが、インタビューで作品の発想の元になったものとして、

「誰かが情報を支配していて、自分たちには真実を伝えられていない」という思いがあった、というようなことを話していた。

 

このことはこちらにエントリを書いたことがあるのだが、自分たちの世代にとっての敵は、情報を握り、発信する情報を操作するものだった、と言っているわけだ。

 

今でも割と広範にそういう意識があると思う。現在ではネットによって直接的に情報は拡散して行くから、報道がそれに追いつかない、あるいはネットでいくら盛り上がっていても報道が取り上げない、というようなことがあると、「マスコミは意図的に情報を隠蔽している」という発想がすぐ出てくるようになっている。

 

当然、ある程度の操作は報道機関によって行われているだろう。事件が起こったときには大々的に報道されるのにその人が無罪になったからと言ってそれは全く報道されない、というようなことは時々ある。

 

メディアスクラムによって取材が過熱することによって取材対象を追い込むことも珍しくないし、よく言われることで言えば大口の広告を提供してくれる企業に都合の悪い報道はほとんどされない。海外で起こった事件も、ほとんど報道されなかったり、適切な論評が行われずに変な誤解が広がったりすることもよくある。

 

どこまでが能力の問題であり、どこまでが意図的なことなのはか判然とはしないが、情報を取材・加工して再販するのが報道機関であるわけだから、売りにくいものや自社に都合の悪いことが出てきにくいというのはある意味資本主義原理ではある。

 

しかし、そういうものとは別に、明らかに情報を操作しているのではないかと思われることも時々ある。朝日新聞によって行われた「戦前の日本は悪だった」と言うキャンペーンは今や国際問題になってしまったが、元々はある種の「啓蒙的」な意図によって起こされたものだったのではないかと思う。

 

つまり、日本の保守性・後進性の根源は、戦前の日本の価値観にあり、それらを抹殺して進歩的な価値観に大衆を染め上げようと言う、ある種のショック療法として提起されたものだったのではないかということだ。その原型は戦後米軍によって行われた戦争犯罪教育プログラムWar guilt information programにあったと思われるが、実はアメリカ経由とは別に、日本の知識人=エリート層には、伝統的にそうした「啓蒙としての物語を大衆に与える」という発想があったように思われる。

 

「戦争が終って…新しく、平和憲法という嘘が公布された。これはアメリカに強制されて、日本人が自由意志でつくったように見せかけたもので、まぎれもなく嘘である。発布当時嘘だったと同じく、今も嘘である。しかし、この嘘から誠を出したいという運動を、私たちは支持する。…」

 

これはツイッターで流れていた鶴見俊輔の言葉だが、これは平和憲法を顕教、すなわち表向きの建前の大衆的な理想として流布させ、アメリカに対しては反発を持ちつつ、ソ連や中国などの「真の民衆の立場にたった」諸国に近づいて行こうという意識があったと言っていいだろう。

 

顕教というのは仏教において教学で学ぶ論理的な教えであり、より呪術的な直接性を持つ密教と対比される。戦前の日本のエリートの間では、「神国日本」という体制的な教えを顕教と称し、天皇機関説的プラグマティズム、つまり統治のために顕教を利用するのが我々エリートで、その意識こそが密教だ、という意識があったことをふまえている。

 

日本国憲法の「平和主義」は、私はアメリカによる懲罰的押しつけだと思うが、彼ら戦前知識人にとっては忌わしい軍部の思い出を払拭するとともに、アメリカの嫌う共産圏に接近するためにも都合のいい論理であって、それを利用しようとする密教意識があったと言っていいのだろうと思う。

 

彼らは「意識の高い」=「密教を承知している」人々の共同体であり、平和憲法護持を建前として押し出す戦略的反米・反政府と言う意識を持っていたわけだ。(ここの論は@kingbiscuitSIUさんのこちらのツイートを大きく参考にさせていただいた。

 

つまり彼ら進歩的エリートは平和憲法を顕教つまり大衆教化の手段として用い、自らの密教的理想に国政を動かそうとしていたわけだ。その進歩的エリート集団の一角として非常に大きな力を握っていたのがマスコミ、特に進歩的マスコミだったと言えるだろう。

 

当然、その動きに対する違和感は戦後ずっといろいろな形で表明されてきた。しかし、マスコミが大きくそれらを取り上げることはなく、少数の異端派としてあまり連帯されることもなく、細々と「保守論壇村」の形で続いてきたわけだ。

 

しかし、彼らの密教的理想であったはずの共産圏諸国では自由化運動に反人道的な弾圧が行われ、またペレストロイカとともにソ連の党勢力が弱まり、ついには東欧革命、ソ連崩壊、天安門事件、中国の市場自由化、北朝鮮の拉致犯罪の明確化と、その密教的理想が完全に破綻してきたことと、ネットの発達による大手マスコミに独占されない言論の成立によって、その空洞化した密教思想の残骸的な実態が白日の下にさらされることになってしまったわけだ。

 

もう、一部の人々をのぞいて、その密教的理想を誰も信じていないにも関わらず、マスコミの「自分たちが世論を主導すべき存在」という意識だけは消えず、ネットで意見を言う若者たちの多くに、「百害あって一理ない」存在と見なされ始めているのに、今なお自らの優位性を主張しネットの有効性を十分に認められない状態になっている。

 

この構造がいつから始まっているのかと思ったのだが、実は戦前からずっと続いていたのだと、先述のツイートを読んで思ったわけだ。

 

さて問題はどこにあるのか。情報を握り操作しようとするのは、エリート層やマスコミのある種の特性という面はないことはない。マスコミやエリートが大衆をある程度信頼していたら、事実をそのまま報道するということもできなくはないのだが、日本においては元々戦前から、エリートは大衆に対していわば「挫折したナロードニキ」的な不信感を持っている。

 

大衆の側はエリートに対して無意識の信頼(日本というシステムを動かすことにおいて)と無意識の不信(頭でっかちの理想主義で現場を知らない)を同居させてきたのだけど、

情報面で操作されていると言う意識はなかった。しかしエリート層の言うように世界はならなかったこととネットによってエリートの情報独占が破られたことで、より深い不信がよりネットに親しむ層に浸透したということなのだろう。

 

日本のエリート、特にマスコミの悲惨は、情報独占が崩れたことによって常に検証され攻撃される可能性が出てきたこと、情報のマネタイズ能力が限りなく落ちてきたこと、そして提示すべき理想=密教の根本であるマルクス主義およびそのエピゴーネンの思想が限りなく色あせ、空虚化したものになったことの三つがあるのだと思う。

 

それではなぜ日本にここまで「マルクス主義」が浸透したのか、というのはまた別の問題になるが、それは稿を改めてまた書きたいと思う。

 

この稿では結局何を書きたかったのかと言うと、日本的エリートというものがどういう意識を持っていたかということと、それが現在の「マスコミ不信」になぜ、どうつながっているかということだ。この現象はかなり日本独自の事情や歴史が関わっていることだと思う。

 

情報の共有や流布についてどういうスタンスが今の時代の日本にふさわしいのか、という具体的な提案ができたらいいのだが、そこまでは考えが進んでいない。また、それとは関係なく情報の拡散化と新たな隠蔽化は進むだろう。情報に対するスタンスに関する実践的な哲学の確立が求められているのだなあと思う。