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史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

『怒り新党』の「上の話をする人への怒り」という話題と「吃音の看護師の自殺」に思ったこと

昨日たまたまテレビをつけていたら、『マツコ&有吉の怒り新党』をやっていた。その内容が妙に頭に残っていたらしく、朝の寝床の中でいろいろ考えていた。

この番組は日常生活の中で感じた様々な「怒り」を番組に投書し、そのないようについてああだこうだとマツコ・デラックス有吉弘行がしゃべり、その怒りが妥当なのかどうかを「決定」する、というスタイルのバラエティ番組だ。

昨日読まれた投書の内容は、「会社で話をしていて、38℃の熱が出て大変だった、という話をしていたら、「俺なんかこの間インフルエンザで40℃の熱が出てさあ、と割り込んできた先輩がいた。そんな上の話をされたら38℃の話が続かないじゃないか。腹が立った。」というものだった。

最初は下らねえなあと思って何となく消すでもなく見ていたのだけど、見ているうちにだんだん面白くなってきて、姉妹にはなんだかすごく本質的な話なんじゃないかということが分かってきたのだった。

マツコが「その40℃の話で割り込んだ人の、何が悪いのか分からない」というと、有吉が「38℃の人にも何か話が合ったのかもしれないのだからさせてやるべきだ」というようなことを言って、マツコが「でも38℃って普通じゃない?」そんな話を聞いてもつまらないじゃない、みたいなことを言って、すると有吉が「それはマツコさんには分からないかもしれないね。」と言って、マツコは「そうなの。私は40℃の人なの」と言っていたのが可笑しかった。

だいたい、私にも思い当たることがあり過ぎなのだった。つまり、私も「40℃の人」だったのだ。「だった」というのは、つまり最近、有吉の言うことも理解できるようになったということだ。

「40℃の人」は「38℃の人」の話なんてつまらないから、もっと面白い話をしてあげようと思ってサービス精神で「上の話」をするわけで、基本的には悪い人ではなく悪気があるわけでもない。だからそれをいやがる人がいるというとすごく心外なのだ。疎外感を感じたりする。それは自分もそうだったからよくわかる。

でも「38℃の人」には38℃なりの言いたいことがあるわけだ。私もよく普通に話をしていて自然に話を上の方に持っていってしまおうとし、「聞いてよ!」と言われることがよくある。昔はそういわれると「かったるいなあ」と思いつつ「はいはい」と聞いていた(親の話を「分かってるよ」と思いながら聞くのと似ている)わけだけど、最近はむしろそういわれて聞いてみると「38℃の話」でも結構面白かったりすることが多くなった。これは最近気づいたことだ。

で、ここまでの話で自分が気づいたことをまとめると、大事なことは二つあって、一つは「38℃の話でも言いたいことは言ってもらった方がいい」ということだ。私などはすぐ「38℃より40℃の方が面白い」、つまり「どっちが上か」という「勝ち負け」で、これはそうでない人には分かりにくいとは思うのだけど、ごく自然にそういう思考をしてしまうのだけど、そういう勝ち負け以前に、「そういう話をしたいというその人自体の意思」の「存在」を認めるということがずっと大事なのだ。

これはまあつまり、人にはすべて生きる価値があるとか人権があるという問題にも連想がつながっていくわけだけど、38℃の話がつまらないと自然に切り捨てられることですごく傷つく、怒る人がいるということに、40℃の人は気がつかないということなのだ。つまり、40℃の人にとっては常に「生き馬の目を抜く」社会で生きているという実感があって(マツコがそういってたし私もそういいたい気持ちはよくわかる)、ということはつまり生きる、存在することを許されるためには、常に勝ってないといけない、それが当たり前だという意識があり、そうやって生き抜いてきたということなのだ。

マツコは「(男なら)38℃の話をするんじゃねえよ」みたいなことを言ってたけど、確かに「聞いてほしいなら、遮られたくなければもっと面白い話をしろよ」という気持ちはよくわかった。

ただそういう、「(無意識の)勝ち負けとしてのコミュニケーション」が苦手な、必ずしも得意でない人にとっては、そこで生存に必要な(承認欲求の満たされる)最低限のコミュニケーションも許されないのか、と思ったら「怒り心頭」に達するのももっともだと思う。

二つ目は、「38℃の話の面白さというものがある」ということ。これは私も最近ようやく分かってきたことなのだけど、面白い人は「40℃の話」だけでなく、「38℃の話」をしても面白い。人によっては「40℃の話」よりも「38℃の話」の方がずっと巧みで上手いこともある。だから「38℃かよ、めんどくせえな。俺がいっちょ40℃の話で盛り上げてやろう」と思う前に、まずはその話を聞いた方がこっちも得をする場合があるということだ。(もちろん本当につまらないこともあるが、それは税金というものだ。それにいつも本当に自分にとってつまらない話ばかりする人の話にあえて口を突っ込まなくてもいいわけで)

それはウェブ上でのコミュニケーションも同様だなと思う。私が長い間どうしてこの人はこんな熱の低いことを書き続けているのにものすごいアクセス数を稼いでいるんだろうと思っていたサイトがあるのだけど、最近ようやく分かったのは、その人は上で言う意味の38℃の人であって、そしてその話のしかたがとても上手い、というか考えられていて、きちんと読む方に伝わるように書いているということなのだ。私は内容をぱっと見てすぐにあまり面白くないと思ってしまうのだけど、面白いと思えない内容なのについ最後まで読んでしまう、ということがよくあった。つまり、上手いのだ。38℃の話をするのが。

最近だんだんその面白さが分かってきた感じがする。そしてそうかなと思ったのは、「いわゆる文学」の面白さというのもそういうようなものなのかも知れないということなのだ。「いわゆる文学」というのは日本的な私小説的な文学ということだ。

誰か劇作家が以前、そういう文学のことを「自分の貧しさを縁側で虫干ししながら売り物にしている」というような意味のことを言っていた気がするが、まあそこまでいかないにしても、ある意味言葉があまり巧みに出てこない人の方が、むしろ日本の文学では主流なのではないかという気がする。言葉が巧みに出てこないからこそ、言葉にこだわるのだろう。

話は戻るが、マツコは有吉に説得されて、テレビに出演するようになった頃、芸人と話をしていて感じた嫌な気持ちを思い出してきた、と言ってキレていたが、あれもすごくよく分かる。何で私が面白い話をしてあげようとしているのに、その考えを認めてくれないのよ、と思うんだよな。私もそう感じることは昔からよくあったのでその気持ちはすごくよくわかった。

逆に言えば芸人というのは、本来コミュニケーションが苦手な、コンプレックスを持っているような人が多いのだろうと思う。それをなんとかしようとして、人を笑わせたりこっちのペースに巻き込んだりする技を身につけて生き残ってきた多いから、むしろ言葉になりにくいことを言葉にしようとする人に対しては応援しようと思えるが、「上の話」をしようとする人には「そうじゃねえんだよ」と言うんだろうなあと思う。

芸人の面白さと言うのはそういう「自分に何ができないか」と言うことからスタートして、何かを獲得していくことができた、と言うストーリーの面白さを背負っていることから出ているのだと思う。と言うことはつまりある意味強いコンプレックスを持ち続けてそれが原動力になっていると言うことであり、人によってはそこに卑屈さを感じさせて、見え隠れする卑屈さに嫌気がさしたりしてしまう人もいる。

私がいわゆる「お笑い」をあまり好きでないのも、そういう部分なんだろうと思う。「人の苦労には強く共感できるけど、苦労を知らないと感じさせる人にはガツンと言ってやりたい」と言うタイプが、私はあまり好きではない。やはりそれはそれで一方的だと思うからだ。

私もむしろ、そういう人と成長過程で接してきた期間が長かったから、そういう話は「わけが分からないよ」と思いながら相手の方が立場が上だし、と思って黙ってきたようなところがあって、マツコが感じたその疎外感と言うのはよくわかるわけだ。

大学時代はそういう上へ上へと話を持っていくタイプの人が多くて、そういう意味ではすごく楽しかった。社会に出るとまたそういうわけにもいかなくなったわけだけど。

まあそんな風に考えていくと、「40℃の人」と「38℃の人」と言う立場の対立みたいなものが見えてくるわけだけど、ちょっと分かりやすく極端化して言えば、40℃の人と言うのは「すごい話題をした人が勝ち」という「話題マッチョイズム」だと言うことができるし、まあ私にもそういうところはある。逆に言えば「38℃の話」をなかなかおもしろがることができない、不自由な人だと言うこともできるわけだけど。

ただ、40℃の人だって、本当は38℃の話をしたいのだと思う。しかし、「負けたくない」からなかなかそういう話ができないのだ。私の場合はいつかの時期に(ああ、モーニングページを書き始めたときだな)それが破裂して、ブログにも日常的な、38℃的なことをだらだらと書き続けるようになったのは、自分の中でこういう話を書かないと死んでしまう、というかおかしくなってしまうと言う強い気持ちに襲われて、自分の中身に強制されて無理矢理書くようになった、と言うところがあるのだ。だから、ええい、読んでくれてもくれなくてもいいからとにかく書くぞ、でもアクセスはしてくれ、みたいな40℃的な高飛車な態度がのこっている中で書いていたので、まあ読んでもあまり面白くないだろうなとは思う。ただある意味本当にそういう熱の低いことを書く事自体がある種の生命線になっているので、なかなかやめられないと言うところもあるわけだ。

こういうことを書いていると、昨日読んだ記事を思い出す。朝日新聞デジタルで読んだ吃音の看護師が自殺したと言う事件の記事だ。この記事に関してfujiponさんがツイートで「医療業界って、基本的にマッチョなんだよな」と書いていて、そうだろうなあと思ったのだった。

戦場のように忙しい医療現場において、吃音の看護師の言葉が出てくるまで、じっと待ってあげようと思う同僚はあまりいないに違いない。患者の方も、聞いたことにすぐ答えられない看護師では、大丈夫なのか、信頼できるのかと思いがちだろう。しかし、逆に言えば自分の身体が思うようにならない戦慄とともに過ごさなければならない患者たちにとっては、そういうマッチョイズムは心強く感じられるばかりではないだろう。まさに上に書いてきた話につながるが、患者というものは医者から見たら大したことないと思う話をとにかく言いたくて仕方が無いと言うのがある意味普通なのだと思う。

私も父が死の床で入院していたときにお世話になった言語療法士の方が足が不自由で、院内でも足を引きずりながら歩いていたけれども、とても親切ですごく好感を持ったことがあった。医療現場と言うのはむしろ、そういう不自由な部分を抱えた人たちこそが働くのにふさわしい部分が本当はあるのだと思う。

ただ、実際の医療現場では、いろいろとつらかったし、理解もしてもらえなかったと言うことはあったのだと思う。自分がこういう状態だと言うことを言ってこういう風に接してほしいと言っても、そんな面倒なことを押し付けるな、と思う人が多いのがやはり一般的なんじゃないかなとは思う。それはやはり悪気があるわけではなくて、そういうことが分からない、ないしはマッチョ的な考え方でがんばる自分に誇りを持っている人が多い(でなければ医者も看護婦もあんなにがんばれないだろう)から、そうでない人の考えがなおさら受け入れにくいと言うことはあるだろうと思う。

今の社会が、「コミュニケーション能力」を求める、重視する社会にどんどんなってきていると言うこともまた、そういう人にとってはつらいだろうと思う。

就職活動もそうだが、大学入試においてすら、「コミュニケーション能力」がも止められるようになってきた。そして誰もがそのような能力を備えているわけではない。高度なコミュニケーション能力は、ある意味アスリート的な能力(つまり、すべての人が自然に備えている能力ではない)だと言う認識が、十分に共有されていない。つまり企業社会も官僚社会も大学社会も、基本的にはコミュニケーション強者の社会であり、またその傾向は強くなりつつある。吃音のような不利な状態を持っている人だけでなく、38℃の話しかできないような人はある意味コミュニケーション弱者と言うことになり、社会の中で不利なポジションに振り分けられてしまう傾向は強くなっているのだろう。

上にも書いたように、私はどちらかと言うとぺらぺら喋る方なので、口が重い人の前にいくとむしろ緊張したり、萎縮してしまったりする傾向があった。昔の日本人の大人、少なくとも私の周りの大人と言うのは、黙っていると圧倒されるような威厳のある人が多くて、なんだかそういう人と付き合うのが私は苦手だったのだ。現代ではみんなぺらぺら喋ってくれるから、私などにとっては生きやすい世の中なのだけど、誰にとってもそうではないのだなと思う。

ただ、救いなのは、ネットの発達によって、なかなか普段は相手にしてもらえないような話でも、その話で共感し合えるサークルのようなものを作るのが昔に比べるとすごく簡単になっていることだ。

この話、何がどうなればいいのかと言うことの結論を出すのは難しいのだけど、つまりはお互いに理解し合え、配慮し合えるようになれればいいのだと思う。というかまあそういうしかないのだけど、お互いにそういうことにおいてコミュニケーションをとっていくしかない。上に述べたような理由で、コミュニケーション強者=40℃の人はコミュニケーション弱者=38℃の人のことを理解しにくい構造があるし、またコミュニケーション弱者もその事情を主張しにくい構造があるわけだけど、つまりは結局40℃の人は38℃の話もおもしろがれるような人間の幅の広い人が増え、38℃の人でも芸人さんたちのようにコミュニケーション能力を鍛えていくことでその事情を40℃の人の側にも伝えていける人が増えていくことによって、少しはお互いに理解し合えるような場所に日本をしていくことによってしか、誰にとっても比較的すみやすい場所に日本をしていくことはできないんじゃないかな、と思うのだった。

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この文章は Feel in my bones からの転載です。