史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

教養の持つ本当の意味の一つは、階級転落に対する下方硬直性にあるのではないか

夕食は丸善日本橋店3階のカフェで東京駅方面の夜景を見ながら。こういう楽しみ方が文化的資産の生かし方というものなんだよなと思いつつ、fujiponさんのブログで紹介されていた西原理恵子さんの『この世でいちばん大事な「カネ」の話』の言葉を思い出した。

 

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)


「貧乏人の子は、貧乏人になる。泥棒の子は、泥棒になる。」

 

それは一理ある、というのは、それがそういうものだという環境で育てば、そうなってしまうということだ。fujiponさんのエントリはもともと堀江貴文さんの『ゼロ』についての感想なのだけど、西原さんの言葉が引用されているのは「稼ぐ」というテーマが同じだからだ。

 

ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく


堀江さんの『ゼロ』に対する感想は私もこちらこちらで書いているけれども、「稼ぐ」「働く」ということの重要性については、私もその通りだと思う。

 

以前、ツイッターでRTされていたツイートに「一般教養で飯が食えるようになるのか」という東大生(と称する人)のツイートがあった。私は、その意見はずいぶん一面的だと思って、でもそれなら教養というものがどういう場面で必要なのかと考えていたのだが、それはつまり、「階級転落に対する下方硬直性」だと言っていいんじゃないか、という答えに至ったわけだ。

 

確かに、「何百年も社会の最底辺にいる人たち」というのはいるだろう。しかし長い年月の間、階級を上ったり下りたりしている人たちもまた多いはずだ。私が職業高校やいわゆる底辺校で教員をやっていた時の生徒たちも、三代前までは豪農だったり立派な商家だったりしたが商売に失敗してすべてを失ったとか、元映画女優(端役だったようだが)の息子とか、いろいろな子どもがいた。

 

自分の周囲の人を見ていても、どんどん社会の底に沈んで行ってしまう人もいれば、あるところで踏みとどまって、金はなくても清々した生活を送っている人もいる。

 

その何が違うかと言えば、家庭に教養というか文化力があるかないかの違いだと思った。教養的基礎のある家庭で育った子は家は貧しくても学習意欲があるし、奨学金や留学制度などさまざまな手段を使って自力で道を開いていこうとする力がある。

 

襤褸は来てても心は錦」ではないが、「教養」というものはもともと下層階級のものではないので、貧しくても新聞を読んで社会を論じる力を持っていたり、政治家を批評したりする力を持っていたり、良いものを見る目を持っていたりする。だからある程度以上身を持ち崩すことが少ない。そういう家庭で育った子供は、そこから再び抜け出して日の当たる場所に出ていく力を育てやすいのだ。それが「階級下降に対する下方硬直性」ということの意味だ。

 

まあ逆に、教養があるために階級上昇が妨げられてしまう場合もあるだろう。いわゆる「文人政治家」は「教養が邪魔して貪欲になりきれないために総理大臣になれない傾向がある」と言われているし、特に東洋的な教養は金銭を賤視する傾向があるので起業とか投資に積極的になれない傾向があるだろう。

 

おそらくはそういうことがあるから「教養なんて邪魔なだけ」という見方が強くなっている面はあるのだと思うけど、「逆境で身を保つために必要な力を与えてくれるもの」という側面で教養というものをとらえてみたらどうだろうか。そういうふうに言えば子どもにもわかりやすく教養の重要性を伝えられるのではないかと思った。

 

そして、その教養の雰囲気、良さというものが一番手軽に味わえるのが本屋なのだ。本屋に行く習慣がある人とない人とではやはり持っている雰囲気が違う。それは美術館でもいいし、劇場でも音楽ホールでもいい。そこに行くことで味わえるものは、やはり文化とか教養とかの空気なのだ。

 

楽器を演奏できること、あるいは自分の好きな画家の絵を買った経験などは、生活を豊かにする。作家ものの食器を一つ買うだけでも違う。この世に一つしかないものをお金を出して買うという経験は何物にも代えがたいし、一番意味のあるお金の使い方だと思う。もちろん程度問題とか分相応という問題はあるのだけど。

 

そしてまた、困難なことではあるが、そういう環境になくても誰かよい教師や生活上での師に出会えば、自分の力で教養を身につけていくことは不可能ではない。

 

おそらくは現代も多くの人は「稼ぐ」ことの方が優先されなければならない状況にあるとは思う。社会的に成り上がることに成功した人が次に求めるのが教養や文化力を背景にした「尊敬」であることが多いが、小さい頃にその教養の本質(と言えば大袈裟だが、つまりは「知は力なり」ということだろう)を体得しておけば、それはずいぶん有利であるし、ある程度成長してからも、上に書いたような際限なく落ちていく状況は防ぎやすくなるだろう。

 

そんなことを考えながら食事をして、丸善を後にした。

 

バターとチーズと何か朝食に食べるものがほしいなと思い、丸ビルの成城石井まで行くことも考えたが、よく考えたら高島屋の地下に何かあるだろうと思い、行ってみると明治屋が入っていた。明治屋は京橋の本店とか新丸ビルの地下の店舗によく行っていたが、京橋の本店が再開発で休業してしまったので(そういえばあのビルはどうなるのだろうか。かなり歴史のあるビルだと思うのだが…)、高島屋に入っていると好都合だ。発酵バターとブルーチーズとサルタナレーズンを買って帰った。

 

金も時間もない時にはコンビニの298円の弁当も食べるけれども、そういう食べ物もあると知っておくことは、違う世界への通路の一つにはなると思う。

 

(このエントリは「Feel in my bones」の2013年11月11日の記事を転載・修正したものです。)