史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

オスマン・トルコ帝国の歴史叙述

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今日は純粋に歴史学的な興味から読んだものについて書いてみたい。

 

私は西洋史学科を卒業して高校の歴史を教える教師として10年間在籍し、大学院も修士課程を終えていて、短大で日本近代史の講師などを務めたこともあるのだが、現在では歴史学の一線に触れることは少なくなっている。

 

しかしこの人類の歴史のある瞬間にこの地に生きるものとして、歴史というものの研究動向がときどきふと気になることがある。

 

とはいえそんなに熱心にいろいろ読んでいるわけではないのだが、歴史の教師をやっていた関係上、今でも送られて来る雑誌のひとつに山川出版社の『歴史と地理』があり、この669号(世界史の研究237号)を読んでいて興味をひかれるレポートがあった。それが「史料紹介」に出ていた小笠原弘幸「オスマン帝国の歴史書」だ。

 

オスマン帝国ビザンツ帝国を滅ぼした軍事的強国という印象がある。その最大の建築物スレイマニエモスクにしてもビザンツ帝国アヤソフィア大聖堂のコピー的な印象があるし、教科書のイスラム文化のページでもほとんどページを割かれていないこともあって、武力には優れているが文化的にはあまり特筆すべきものがないという印象で語られてきた。つまり、政治史・軍事史的には重要な国であっても文化史的にはあまり取り上げられてこなかったのだ。

 

そのオスマン帝国で「歴史」というものがどう語られてきたか、ということについては改めて考えて見たことがなかったので大変興味が引かれた。

 

オスマン帝国では、実はすでに建国直後に歴史叙述自体は始まっていたのだが、チムールに大打撃を与えられたアンカラの戦いによって黎明期の作品は失われたのだろうと著者は推測している。最初期の叙述はトルコ遊牧民口伝していた武勲詩、英雄伝に近いものだったと彼はみているが、15世紀末に成立した『オスマン王家の歴史』は伝承を利用して原初的な年代記の性格をもち、遊牧民的なオスマン集団が略奪をくりかえしつつ、国家としての形を整えていくさまが語られているという。

 

このあたりのことは、たとえばヤマトタケルの武勲をうたった『古事記』の叙述が思い浮かぶし、徳川家の祖先が猛々しい武士、というよりは野武士集団だった時代をうたった『三河物語』を思わせる。あるいはトロイを下したホメロスの詩編や、ヴェルギリウスの『ローマ建国史』も連想されるだろう。そういうものは歴史的信憑性はともかく、民族の精神的よりどころとして非常に重視されるものであることは洋の東西を問わない。民族の英雄神話、の時代である。

 

そういう歴史叙述の転機になったのがバヤズィト1世(位1481-1512)の時期に書かれた『八天国』『オスマン王家の歴史』で、これらの本は美文体で書かれ、オスマン王家の『系譜図』(人類の祖アダムから最後の預言者ムハンマドを経て現王家に至る系譜を図示したもの)も描かれており、美術史的にも文学史的にもイスラム世界のほかの諸王朝に劣らないものがつくられたのだそうだ。

 

ムラト3世(位1574-95)の時代には「王の書詠み」という官職が定着し、ペルシャ語で書かれた『王の書』を詠むだけでなく、オスマン王家の事績を扱ったオリジナルの韻文や散文の史書を「詠む」という伝統が作られた。またこの時代は「世界史」の編集が行われ、「諸時代の鏡」や「集史」「ジュナービー史」などが書かれたという。

 

17世紀になるとヨーロッパに軍事的に押されるようになり、ヨーロッパの情報を取り入れるようになったが、それは「必要な知識や技術を文化圏や宗教を問わず取り入れるプラグマティズム」から来たもので、劣った自分たちが西洋の近代を取り入れようとするものではなかった、と著者はいう。

 

このあたりの解釈は微妙だと思うが、江戸幕府がこうしたプラグマティズムをもっと持ち続けたら、オスマン帝国と同じくらいは生き伸びた可能性があるかもしれないという気もする。ただ、そうなってたら日本近代史はトルコと同じようにもっと大変なことになってたかもしれないとも思う。三大陸に覇を唱えたトルコは次々に領土を奪われ、最終的には第一次世界大戦に敗れてほぼ現在の領土を残すだけになってしまったのだから。

 

18世紀になると国家の公式の歴史官「修史官」の制度が出来、帝国各地からの情報を集積し同時代の歴史を編纂したのだという。これは古代中国の史官を思わせるが、「軍人の帝国」から「官僚の帝国」への変容を象徴している、と著者はいう。

 

この時期に書かれた『ナイーマー史』はオスマン帝国の断代史だが、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』の影響を受けて社会を有機体になぞらえつつ国家の盛衰を論じているのだという。この意味でオスマン帝国の歴史家たちこそが、イスラム世界最大の歴史家、イブン・ハルドゥーンの後継者なのだと著者は論じているのだ。

 

これらのことは初めて知ったことばかりなのでその記述をどう評価していいのかはよくわからないのだけど、興味深いことは確かだ。著者が「オスマン歴史叙述の世界は、オスマン帝国史研究のフロンティア」だ、というのも説得力があるように感じた。

 

私にとってオスマン帝国世界のことについて一番イメージが描けるのは、ノーベル賞作家であるオルハン・パムクの『わたしの名は「紅」』の記述だ。

 

パムクはオスマン文化についてやや悲観的な書き方をしているけれども、小笠原はそれをもっと評価していくべきだ、という視点で見ている。「トルコという国の西欧化された知識人」としての哀しみを持つパムクと、「日本という国でオスマン帝国の正当な評価を確立することに意欲を燃やす気鋭の学者」である小笠原という取り合わせを考えると、その書き方のイメージの落差にもいろいろと考えさせられるところがある。

 

これは非西欧世界においては避けて通れない自らのアイデンティティをどこにおくかという問題で、パムクはむしろ世界文明として西欧文明を受け入れていて、その中で自国の歴史や現状を嘆く傾向が強いように思う。一方小笠原はおそらくは文化相対主義=反エスノセントリズムの立場からトルコ文明自体の価値をより強調したいと考えているように思われる。

 

それにナショナリズム的な立場を加えれば、現在の日本でも同様のアイデンティティを巡る問題ないし対立が展開されているわけで、その意味で人ごとではない。

 

私は長い間、文化相対主義的な立場をとってきたけれども、今このことについて考えていて、それも絶対的に正しいとは言い切れないなという気がして来ている。

 

西欧文明的価値観や、グローバル資本主義的価値観を、ただ排撃するだけでは現実的な力になり得ないし、文化相対主義の立場を主張しても、どの国にもディズニーランドに強い魅力を感じる民衆は少なからず存在することは否定できない。

 

むしろ文化的なピュアリティを必要以上に強調するのではなくて、外来文明の良いところを評価して取り入れていくという日本の柔軟な文化的伝統を見なおした方がいいのだろう。

 

おそらくはその取り入れていくときの姿勢に主体性を持つことが大事なのだと思うが、このあたりのことはもっと考えを深めて改めて論じたいと思う。