史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

小林よしのりの時代(その4・終)

ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇

(その3)からの続きです。

 

2014年現在、支配的であるようにみえる思潮は、思想的な大義を求めるものではなくて、「現実主義」的な立場のものだ。それはつまり経済発展とか大国化とか現状維持とかの思想には関係ない部分に根拠をおくもので、「親米保守」というものの存在が最もその実態を表しているのだと思う。日本は明治維新前後からのずっとそういう感じなのだけれども、現実主義的な観点からは人は共同しやすいものなのだろう。

 

そうではない、思想的な大義のもとに人が集まるのは、そう簡単なことではない。それが可能になるのは、経済発展も現状維持も見込めない絶望的な状況と、頭山のような大人物とかレーニンやヒトラーのようなカリスマが必要なのだ。

 

現在の状況が絶望的であるかないかはともかく、現今の政治家や思想家にそれに足る大物やカリスマは幸か不幸か存在しない。むしろスティーブ・ジョブズ孫正義など、企業家の方に社会を変える可能性が託されているのではないかと思われる。その状態がいつまで続くかは分からないが。

 

期待という点でも行動という点でも、自分が本当に求めているのは小林さんが進もうとする方向ではないなあと思うようになってきて、私は小林さんの熱心な読者ではなくなった。私は正義や思想的正しさよりも、楽しさとか豊かさに価値を置く人間だということが今ではだんだんはっきりしてきた。

 

逆に言えば、自分自身の心の中がある種の危機的な状況になっていたとき、それが小林さんのこのままではいけないという訴えに強く共鳴するところがあったということなのだろう。

 

小林さんの説いてきた一つ一つの方向性、また行動してきた方向性は、今でも共感できることは多い。拉致被害者の救済を訴える集会に参加したりしたのも、小林さんの作品を読んでなければなかったことだと思う。女系天皇推進論についても、以前は強い抵抗があったけれども、小林さんの作品を読んでいるうちに以前よりは抵抗はなくなってきた。

 

特に、頭山満に関する連載に関しては、コンテンツのひとつとして読んで行きたいと思う。

 

ある意味、私自身もそういう政治や運動に強く傾いた状態から、本来の自分、自分自身の日常に復帰しつつあるように思う。

 

小林さんにしても、ご自分でも書いているが、最後のよりどころは政治的な主張ではなく、マンガ家であることそのものにあるのだろうと思う。最近では、より落ち着いた形で作品を描かれているようにもみえる。

 

小林よしのり」が大きく論壇をひっかきまわしていた時代は終わったのかもしれない。でも彼が引き起こした転回は私には大きかったし、日本の社会にとってもそうだったと思う。大げさな言い方をすれば、「小林よしのり以前」、「小林よしのり以後」というくくり方をされてもいいくらいだと思う。既に日本は、小林さんがタブーを解き放つ前の時代には戻れなくなっているだろう。

 

人々は政治的主張に対し、より明確な根拠を求め、納得できないものは納得できないというようになってきている。現在の状況に小林さんはもちろん満足はしていないだろうけれども、全体として前に進んできているとは思うのだ。

 

私にとって、この1990-2000年代は試行錯誤の十数年だったけど、その間小林さんの作品を読むことがある種の支えであった時期はある。そういう意味で私はかなりの恩恵を受けたと思うし、有り難かったと思っている。

 

小林さんの作品の中で、たとえば人の笑顔とか、思いやりの描写とか、戦前の人々を精魂こめて描いたさまざまな場面などを見ているうちに、自分の中の世界の広がりが取り戻されて行ったところもあるように感じるのだ。

 

今ではもう熱心な読者とは言えないけれども、小林さんの活動には何らかの形で関心を持ち続けていきたいと思う。