史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

小林よしのりの時代(その3)

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論

 

(その3)からの続きです。

 

90年代半ばから0年代半ばまで、かなりの部分「小林よしのりの時代」と言える時期があったように思う。小林さんは一人でさまざまなタブーに挑戦し、それまで語りにくかった問題を表に引きずり出し、論点をオープンにした。快刀乱麻を断つ彼の議論は論理も感情も表現力も含め、その圧倒的な迫力で多くの論敵を沈没させていった。

 

その中で小林さんは常に共感する相手を求めていたように思うが、そのたびに決裂して行った。それは、彼の性格だとかそういうことではなく、思想で共同することのむずかしさを表しているのだと思う。

 

今でも小林さんの発言にはときどきはっとさせられることがあるし、さまざまなメディアを使いつつ目指すべき方向性を示そうとはしているのだけど、『台湾論』『沖縄論』まではともかく、『天皇論』からこちらになると、むしろ感覚的なずれがあるところが大きくなってきた。女系論争なども重要なことだとは思うが、それに積極的に関心があるとは言えない。

 

個人的なことを言えば、わりと以前から右翼思想というものに関心はあったので、現在『SAPIO』に連載されている頭山満に関するものは興味を持って読んでいる。頭山の思想や行動を小林さんがどうとらえ、どう表現するか、というところに興味の中心があるのだけど、小林さんはある意味頭山のような存在を待望しているのだろう。

 

保守論壇が力を持ち始めれば思想の潮流は変わるかと思っていたけれども、結局今の保守論壇には頭山のような核になり得る存在がなくて、一人一党的にどんどんばらばらになるばかりであり、そういうことに小林さんは失望し、そう言う存在の再臨への願望というものが、彼が頭山を描いている背景にはあるように思われる。

 

個人的な振り返りとしては、小林さんの作品に熱中していた頃、私は正義とか思想的正しさとか身にあわないものを追い求め過ぎていたなあと思う。それこそ小林さんが作中でときどきうんざりして見せるように、思想家や運動家というものは自分がまじめにやっているということを錦の御旗にして振りかざし、ふざけてみせたり冗談を言ったり批判的なことを言ったりすると頭にきてしまう人が多い。

 

そんなことで決裂してしまって、共感していたのがあっという間に敵にまわったりするので、どうもそういう世界は面倒くさ過ぎると今では思うのだが、そう思うまでは私も「自分が正しいと思う思い」の中で「正しいと思うことをやる」という考え方にとらわれていた。

 

結局のところ、何が普遍的に正しいとか、そういうことはごくわずかにしかないのだと思う。その普遍的な、本当の正しさというのはもっと感覚的なもので、頭で決めてそうふるまうべき、というものとは違う気がする。頭で考えた正義というのは、結局時代とともに移り変わって行くと思うし、あまりとらわれすぎない方がいいのだろうと今では思う。過去の、現在とは価値観の違う時代の人々の行動もまた、そういう価値観の時代だったからこういう行動をしたのだと、その時代に生きた人を慈しむ気持ちで読み解いた方が生産的であるというか、心豊かに歴史を自らの糧にすることが出来ると思う。

 

(その4)に続きます。