史読む月日―ふみよむつきひ―

歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

小林よしのりの時代(その2)

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

(その1)からの続きです。

 

次に小林さんが取り組んだのは、意外なことに従軍慰安婦問題だった。これは次に戦争で戦った祖父たちの名誉回復を図りたいという方向へ進み、南京大虐殺を否定し、ついには大東亜戦争肯定論につながって行く。この展開は、私は個人的には快哉を叫んだけれども、多くの人には衝撃だったと思う。

 

私自身は高校生の頃から従軍慰安婦問題や南京大虐殺の話に触れるたびに、これは何かおかしい、と思っていた。しかし自分でそのおかしさを証明する力はなかったし、それ以前にその問題に触れようとすると吐き気を感じて近づけなかった。私は日本史を学びたいという気持ちはあったのだけど、いま思えばこれらの「戦争犯罪に対する情報で日本人を洗脳しようというプログラム」に関する「強制された正義」に守られた領域にどうしても近づくことが出来ず、断念したということがあった。今でもあんまりまともにそういうことを論じたくないのだけれど、小林さんの主張には強い説得力を感じたし、それまでもやもや思っていたものが霧が晴れて、清々しい気持ちになったのだ。

 

その点は、多くの人たちが同じように感じていたようだ。

 

よく、1995年が戦後史の大転換の地点だと言われる。戦後冷戦体制が崩れ、土地神話が崩れ、成長神話が崩れ、阪神大震災地下鉄サリン事件で安心神話が崩れた。不況は長期化の様相を見せ、せっかく終わったと思った自民党一党支配に変わったのは、不安定な連立政権の時代だった。その不安定さが一番大きくなっていた社会党首班の政権の時代にこの二つの大事件が起こったことは、偶然ではあるにしても十分に暗示的だった。

 

そして、私自身はそれほどは思わなかったけれども、そうした戦後の認識の構造が崩れたことによって、多くの人たちが「騙されていた!」と感じたようだ。これは、戦争に負けたときに多くの人たちが「軍部に騙されていた!」と感じたことと似ているだろう。今度の場合、「騙していた」のは教育であり、日教組であり、社会党政権であり、戦後民主主義者であり、それを主導したマスコミであった。特に新聞・テレビは『マスゴミ』と言われ、非難の矢面に立ったし、それがインターネット時代の幕開けとも重なり、大きな時代転換を印象付けた。そしてその時代転換の急先鋒が、期せずして小林さんの役割になったのだ。

 

その『戦争論』のあたりが小林さんの活動の白眉だったと思うが、その左の論点から右の論点への大転換を私ははらはら見守りながらも、内心応援していた。『新しい歴史教科書』の運動も、そういう点から強く支持していた。

 

新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論 (2)

しかし、また世論の風向きが変わった。

 

また風向きが変わったのが2001年の同時多発テロだった。小林さんは『戦争論2』でアメリカへの攻撃に共感の意を示したのだ。これは右派論壇に強い衝撃を呼んだ。これをきっかけに小林さんは新たに獲得した右寄りの読者層の多くを敵に回して行くことになる。

 

小林さんの活躍もあって世の中の主な思潮が左翼よりから右寄りが強くなってきた頃、さらに衝撃的な出来事が起こった。左翼のひとつの聖域であった北朝鮮が、日本人を拉致していたことを2002年に認めたのだ。

 

小泉政権は本来、北朝鮮との国交回復を図って訪朝したのだが、その交渉の過程で拉致を認めたことで日本の世論は一変した。日本中が嵐のような北朝鮮非難一色になったのだ。日本の保守論壇が完全に市民権を得たのはこの時だったと私は思う。

 

社会主義に対する信頼というより幻想は、既にハンガリー動乱の頃から何度も繰り返し動揺させられていたのだが、ソ連崩壊という決定的なダメージから以降も日本においては言論界も教育界も幻想は維持され続け、その場に身を置くと身を拘束される感じがあり、それを振り払いたいと常に思っていた。だから私は小林さんの活動に関しては強い尊敬の念を持っていた。

 

その社会主義に対する幻想が完全に崩れたのがこの時だった。

 

しかし、一度保守論壇が市民権を得てみると、今度はその保守論壇の実態が、国民の目に晒されることになった。

 

私は高校生の頃から渡部昇一さんなど保守の論壇人の言うことを読んできたのだが、彼らの発言は大学や一流とされるジャーナリズムの中でまともに取り扱われることがなかったから、彼らの発言を相対化することも出来なかった。しかし彼らが市民権を得て見ると、保守論客の間にかなりの意見の対立があり、内輪もめや仲間割れが白日のもとに晒されることになってしまった。小林さんはすでにその中に相当コミットしていたため、小林さんの視点から保守論客の格好の悪さが次々に描きだされて行くことになり、それもまた保守論壇人の憎悪をあおった。

 

保守論壇には実は対立する二つの大きな流れがある。反米と親米である。そして体制右翼は反共という側面から親米だった。しかし小林さんは、明確に思想的反米の立場を取ったことが保守論壇主流の強い反発を生んだ。それは私も共感できることだったが、大勢は違っていた。

 

また、右派論壇のもう一つの焦点となる問題、皇位継承に関して、彼は女系論の立場を取った。これもまた保守論壇の主流は「男系男子絶対主義」であるため、孤立する原因になった。

 

小林さんは左派から右派への世論の大転換という大きな流れを作った人ではあったけれども、右派の中ではイニシアチブをとれたとはいえない。もちろん本来そういうつもりもなかったとは思う。逆に、世論の側が小林さんに大きく乗っかっていた、というべきだろう。

 

そして、また世論の側が小林さんのそばから去って行ったのだ。おそらく小林さんは何も変わってはおらず、自分の正しいと思った方向に突き進んでいるだけなのだ。