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歴史のこと、歴史に関わる現代のことなど。

ビアトリクス・ポターの伝記映画『ミス・ポター』を観た。20世紀初頭のイギリス社会と人生をどう生きるか。

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ビアトリクス・ポターの伝記映画『ミス・ポター』を観た。

この作品は2006年に公開された映画で、「ピーターラビット」シリーズの著者であり、湖水地方のナショナルトラスト運動の祖としても有名なビアトリクス・ポターを演じた主演のレニー・ゼルウィガーのコケトリのある演技が印象的だった。

この映画は、一言で言えば「愛する人を失った才能ある女性が再び生に向かって歩き出すまでの、死と再生の物語」ということになるのだと思う。

映画の舞台は1902年から始まる。1902年という年は日露戦争直前、日英同盟が結ばれた年だが、イギリス史の上から見るとヴィクトリア女王が前年に死去してエドワード7世が即位したばかりの時期だった。日本ではヴィクトリア時代のみが有名だが、重く古典的な、禁欲的な文化だったヴィクトリア時代に比べ、エドワード朝時代は短いものの明るく開放された雰囲気の、「古き良き時代」として思い出される時代だったのだという。そんな気分がこの映画にも表れていて、古い時代の道徳や人間の生き方に対するビアトリクスの両親たちのヴィクトリア朝的な考え方との対比がこの映画の一つの重要なモチーフになっているように思う。

ビアトリクスはいくつもの出版社に出版を依頼したがなかなか引き受けてくれるところがなかったのだけれども、ようやくウォーン社が出版を引き受けた。経験のなかった末弟のノーマン・ウォーンが引き受けたことによって、当時としては常識外れだった女性著者として印刷所に訪れるなどまでして満足のいく書籍に仕上げるなどの努力をした結果、彼女の著書『ピーターラビットのお話』はベストセラーになった。

以降も彼女の本の出版を続けるうち、ノーマンとビアトリクスは愛しあうようになるが、ビアトリクスの両親は結婚を許さない。苦慮した父親は、3か月の夏の保養期間が過ぎても気持ちが変わらなければ結婚してもよい、という妥協案を示す。ビアトリクスはそれを受け入れたのだが、その期間中にノーマンは病を得て亡くなってしまった。

生きる気力を失い、ロンドンの自邸の自室に籠るビアトリクスだったが、ノーマンの姉でビアトリクスの親友のミリーの励ましにより生きる力を取り戻し、湖水地方の農場を買って自活を始める。

そして開発業者に農場が蚕食されている現状を知ったビアトリクスは自ら農場を買い上げ、今まで通りに農民に暮らしてもらえるようにして、自然環境を守っていくという道を開いた。

役者として私が好きだったのは主演のビアトリクスを演じたレニー・ゼルウィガーなのだが、あとはウォーン社のノーマンの二人の兄が、イギリスっぽいというか、なんというかカフカの『変身』に出てくる三人の紳士のイメージを思い出して、可笑しかった。

風景的には、ロンドンの街中や屋敷の中のビアトリクスの部屋のイメージと、湖水地方の農場に引っ越した後の室内の素朴な家具、そして何より美しい風景との対比、また両親のヴィクトリア時代的な人生観とビアトリクスたち「新しい時代」の人生観の対比、生き生きと絵本を書き続けているときと恋人の死を知っての身も世もない落ち込み、また湖水地方に移転してからの生き生きとした生活の対比など、さまざまなところに印象が残った。

映画としては、イギリス的なユーモアを感じさせる部分と、アメリカ的なお約束的な無理やり感が感じられる部分があったのだけど、監督がオーストラリア出身で、制作会社がアメリカで、エグゼクティブ・プロデューサーがビアトリクスを演じたレニー・ゼルウィガー自身だということで、純粋なイギリス映画でもアメリカ映画でもなく、そのあたりからちょっとミクストされた感じになったのだろう。

この映画を見ながら、人はどういうドラマを生きるか自分で選択する部分と与えられる部分があるのだなあと思った。

ビアトリクスは才能のある女性で、でも男社会で正当に評価されない。そこにひょんなことから現れた編集・出版者ノーマンの出現により、望外の成功を収める。ノーマンの死はビアトリクスをロンドンから連れ出し、湖水地方の新しい生活の中でそこでの問題を見つけ、その解決のために果敢に取り組んでいくうちに、弁護士の新しい伴侶を得る。Wikipediaによるとノーマンがなくなったのは1905年(35歳)、弁護士・ウィリアム・ヒーリスと結婚したのは47歳とのことだが、ほぼ彼女の30代の話ということだろう。この映画の時点でレニー・ゼルウィガーは37歳だから、まさにその中心の時期になるということだろう。

ビアトリクスは「人と違っても自分の望みを果たすことを求めて生きる」というドラマを選んだわけだけど、図らずも「愛する人を失った才能ある女性の死と再生の物語」というドラマと、「成功した高名な財産ある女性」というドラマをも生きることになった。そしてそこにとどまることなく、さらに「自然と景観を守る」という人生をも生きたわけだから、すごい人であることは間違いない。

こうしたドラマ映画というものは、自分と同じような境遇を持つ人に対して共感しながら見ることもできるし、またそのドラマの向こうに多くの同じような境遇を持ちながら頑張っている人たちを見ることもできる。

どんなふうに行きたいか、どんな人生を選びたいのか、というのは、「自分がどんなドラマを生きるのか」という決意から始まるのだなと思う。

その先にどんなドラマが与えられるかはわからないが、生きるということは常に自分がどんな人間であるのかということを明確にすることが求められてくる。

ビアトリクス・ポターの人生は一つの明確なビジョンに基づき、運命の試練に耐えながら、自分が選んだドラマを生き抜いていった、稀に見る優れた、素晴らしい女性の人生だったということができるだろう。

どんなときにも、自分はどのようなドラマを生きるつもりなのか、そのビジョンを明確にしていなければならない。

この映画のことを思い出しながら、そんなことを思ったのだった。

 

みなもと太郎『風雲児たち 幕末編』は歴史をvividに知る手がかりになる漫画だ。

みなもと太郎風雲児たち 幕末編』第153話が『コミック乱』5月号に掲載された。

 

1970年代から続く大河歴史ロマン・『風雲児たち』だが、リイド社の『コミック乱』に移って幕末編が始まってからもう153話。もう13年になる。

 

今回は、万延元年(1860)のヒュースケン暗殺事件の事後処理から話が始まる。アメリカ公使ハリスはそれでも江戸に残るのだが、イギリスなど他国の公使たちはより安全と思われた横浜に移動する。

 

ヒュースケン暗殺事件に関わるエピソードも、残された日本人妻と遺児の写真、ハリスが殺害犯に関する情報提供者に懸賞金を書けたこと、幕府がヒュースケンの母親に賠償金1万ドルを支払ったことなど、そうだったのかと思ったことがいろいろあった。

 

続いて小笠原諸島の件。ジョン万次郎がアメリカ系をはじめとする移住者たちを説得して日本領を認めさせ、その功績により捕鯨が許可された、というのも可笑しいですね。

 

あとは文久元年(1861)の日本を取り巻く国際情勢の話、和宮降嫁に関する流れ、各地で起こる治安上の事件など、幕末の乱世が描かれている。

 

高校の社会科の先生方の間でも、このマンガはかなり流行っていたし、手軽に身近な感じでこの時代を学ぶには、面白くてためになる作品だと思う。(もちろん全部を歴史上の事実だと思ってしまうと失敗するので、自分で確認する必要はあるのだが。)

 

私も以前、自分で勉強していて、大きな流れはともかく1853年のペリー来航から1877年の西南戦争に至る四半世紀の流れはとてもわかりにくいものがあるなあと思ったことがある。

 

今でもまだ文久元年なのでごく一部なのだが、登場人物たちが躍動するこのマンガを読んでいると、一つのイメージが出来上がって、そこにいろいろな出来事や史料を読んでの理解を足して行くことによって、割合スムーズにイメージをつかむことが出来るなと思った。

 

そういう意味からだけではなく、なんというかみなもと太郎の作品は、ある意味漫画の王道みたいなところがあって、最近のパターンに毒されていない(ギャグは常に新しいものが導入されていますが)古き良きでも生き生きした漫画だなといつも思う。

 

と言うわけで、これも薦められる作品だと思う。

地方の進学校の凋落と医師不足の深刻化には関係があるということ

いま、かつての地域の名門公立進学校が、周囲の私学などに押され、また通学範囲が広がったことによって寄り吸収力の高い県庁所在地の公立高校などに生徒を奪われて、地盤沈下している例が多い。

 

私の郷里である長野県では、東京の事例などの例を鑑みて、公立の中高一貫校を作る試みが行われている。

 

地域には進学校が必要だ。

 

こういうことを言うと、教育の機会平等を主張する人々からは高校間格差を是認するのかという反論が(少なくとも昔は)あるわけだけど、実際問題として学力の差はかなりあるということと、貧しい地方の生徒が社会的上昇を目指す機会は公立進学校から東大や京大、国立大学の医学部などに進学するというくらいしか機会が得にくいという現実があり、地方公立校の凋落はその意味でも地方出身者の社会的上昇を難しくするという問題を起こしている。

 

しかし、もっと直接的な理由もある。

 

いま、地方では医師不足が深刻だ。医学部を卒業した学生は、東京など大都市に集中する傾向がある。それは就業機会が多いことと、最新の医学の流れにコミットしやすいという理由もあるけれども、それだけではない。

 

医師というのは、私が知る限りでは、もっとも自分の子どもに自分の職業を継がせることを望む人々だ。

 

医師になるためには言わずもがな、医学部に入らなければならない。そして医学部は、最近の不況の状況もあり、「東大よりも医学部」と言われるように、国立私立を問わずその入試はどんどん難関になってきている。

 

そういう状況の中にある医師たちにとって、勤務地の近くにめぼしい進学校がないということは、非常に大きなことなのだ。

 

自分の子弟を通わせたい進学校が近辺にあれば、医師は安心してその地に赴任出来るだろう。しかしそうでなければ、その地域への赴任に難色を示すことになる。

 

ただでさえ高齢化の進行する地方にとって、医師が足りないということは致命的なことだ。相当な高額の報酬を提示して、医師の移籍をあっせんする仲介業者もいるらしいけれども、いくら報酬が高額でも条件に合わないと拒否される場合のうちには、子どもを通わせられる高校がない、ということも多いようなのだ。

 

そういう意味で地方の公立校の立て直しは、地域を維持していくためにも必要なことなのだ、という話を地方の首長経験者に聞いたことがあった。

ベビーシッター殺人と主婦の在宅ビジネスは同じ根を持っている

ここ数日、ベビーシッター業を営んでいる男性の暴行によって幼児が死亡したとされる事件が、報道をにぎわしている。母親と容疑者を結び付けたのがマッチングサイトだということで、そのあたりに非難が集中している傾向があって、これは基本的にどうかと思うのだけど、一番重要な点は、保育園に入園する前の年代の子どもでも、たとえリスクがあっても預けて働かなければならない母親が増えているという点にあるのだと思う。

 

自民党に代表される伝統的な家庭感から言えば、その年代の子どもを持つ母親は家にいて子どもの面倒を見るべきだ、ということになるわけで、その観点からの母親に対する非難が多いように思う。

 

しかし、実際には離婚や一人親世帯が増えていることもあるし、また所得がひと世代前に比べるとかなり低くなっていることもあって、その世代の母親でも何らかの方法で稼がなければ生きていけない、子どもも育てられないという状況にある人が多くなっているというのが現状であるように思われる。

 

高学歴な貧困者も増えているし、また手に職(専門性)がないために十分生活可能な収入を得られないケースも多いが、特に問題なのは「何もできない」ために条件の悪い仕事にしかつけず、それがまた子どもを預けて働かなければならない時間が増えるという悪循環になるケースが多いだろうということだ。

 

しかし、発想を逆にして考えれば、外で働かなくてはいけないと思うから子どもを預けなければならないということになるわけだけど、逆に言えば子どもの面倒を見なければならないから家で仕事をしなければならないという考えにもなるわけだ。

 

それが、昔なら内職であり、いまなら「主婦の在宅ビジネス」だということになる。

 

つまり、「主婦の在宅ビジネス」が流行ることと、マッチングサイトでリスクの大きいベビーシッターを使わなければならないということは、同じ根を持っているということになる。つまり、「自力で稼がなければならない子どもを抱えた何のスキルもない若い女性が増えている」ということなのだ。

 

私は、「主婦の在宅ビジネス」という言葉にどちらかというとなんだか優雅なものを感じていたのだけど、それはいわばそれを指南する側のイメージ戦略であって、実際には貧しい若いスキルのない女性が何とかしてアフィリエイトなどで生活費を稼ごうとしているという実態はかなりあるのだろうと思う。

 

そうなってしまった原因を、伝統的な家族制度の崩壊に求め、家族制度の再建を声高に主張するのはある意味正しい。確かに日本では、とにかく生き残っていくためには家族が団結して協力し合っていくしかなかったという時代が長く続いてきたのだから。

 

実際のところ、自分が見てきた範囲で、非常に苦しい家庭で家族がとてもいい関係であるということは珍しくない。父親が遠くへ行き、母親が夜の仕事をして、小学生の子どもたちだけが夜遅くまで家の中で暴れまわっているような家庭でも、長男が弟たちに小遣いをやってたりするのだ。

 

まあ解決策はともかく、一見関係ないように見えるベビーシッター殺人と主婦の在宅ビジネスの間には、そういう同じ根があるということを、思ったのだった。

社会問題系のことについて、このブログでも少し書いてみようと思う。

社会問題系のことについて、ある頃から意識的に書かないようにしていたのだけど、(それがいつだったのか思い出せないが)何が正しいとか間違っているとかいうことではなくて、この問題とこの問題は同じ根を持っているとか、こういうことが関係してこういうことが起こっているというようなことは、書いてみてもいいのではないかと思うようになった。

 

ネットという場は、どうしても『正義』が『悪』や『不正』を攻撃することになりがちなのだけど、本当はそれはあまり面白くないし、リーズナブルでもない。本当に徹底的に正しい人間など存在しないということは、本当は誰もが分かっていることなのに、自分が正義の側に立って相手を糾弾出来ることがあると、それによりかかって行くことにカタルシスを感じる人が多いから、そんなものに乗っかったところで全く生産性はないわけだ。

 

こういう問題点がある、と訴えるのも、自分が当事者ではなくて、誰かのアナウンスに同情や共感してそれを広げるという目的で書いていたこともあるけれども、その信憑性が実は怪しいということもよくあることで、場合によってはそのアナウンスによって不当に利益を上げようという人もいるらしいこともまた分かって来ると、そう簡単にそういうものに乗るべきではないと思うようになった。

 

しかしだからと言って、世の中に問題が存在しないわけではなくて、当たり前のことだけど日々それで苦しんでいる人もいるし、それを見ても何が問題なのか分からなくて、非本質的なところで苦しんでいる人を非難する、というようなこともよくある。私自身も、あとで問題の構造が分かって、そのことに理解のない発言をしたとほぞをかむ思いをしたこともよくあった。

 

だから一番安全なのはそういう問題について発言しないことだけど、それもまた自分自身にとって何かが溜まっていくことにもなる。

 

ということもあって、ツイッターではときどきそういう問題について意見を書くことがあったのだけど、でもブログでは自粛をして来ていた。

 

しかし冒頭に述べたように、社会問題について、ことの是非をうんぬんするのは差し控えるとしても、問題構造としてこういうことがあるんじゃないか、という見方とかヒントとかいうのを何かのきっかけで得るということはあるわけで、そういうことについては思ったことを書いても害はないし、読んでいる人がそれによってその問題についての理解が深まったら、そこにはプラスしかないのではないかと思ったのだ。

 

というようなことを考えたので、とりあえずこのブログで、そういうことについても取り扱ってみようかと思う。

 

野村進『コリアン世界の旅』を読んでいる。(1)1996年と2014年の間に日本人の対朝鮮・韓国観がいかに激変したか。

コリアン世界の旅

 

野村進『コリアン世界の旅』を読んでいる。1996年の本ということで、少し古さを感じるのは、2002年の拉致事件発覚、金正日がその事実を認めて以来、急速に日本人の対韓国・朝鮮観が厳しくなったのと、韓流ブームに代表されるように、「特殊な関係の国」ではなく、普通の外国の一つになってきたということが大きいように思う。

 

当時はまだ、日本は加害者で、被害者である韓国・朝鮮に対して謝罪の念を持たなければならないと言う思想がまだ浸透していた時期だったから、そういうスタンスの内容でなければ書きにくいと言うことはあったと思う。だから多くの人々が「なんか変だ」と思いながら彼らの主張を黙って聞いているという感じになっていた。

 

21世紀になり、拉致事件が明らかになり、あぶくのように誕生した日本の左派政権が軒並み失敗して、いわゆる進歩的文化人やインテリ左派系新聞の言説がウソだった、という認識が広まるにつれて、日本人の対韓国・朝鮮観は肩の荷を降ろしたような感じになってきたけれども、韓国人自身の認識が変わったわけではないので、そのギャップがどんどん激しくなってきているということはある。

 

今この本を読むとそういう意味でどうしても古い考えに縛られている描写が多いと感じられ、極端に言えば戦前の本を読んでいる感じになる面もあるのだけど、でも在日朝鮮人に対する取材ではなくて、ロス暴動の後のアメリカの韓国人であるとか、直接日本と利害が絡まないところで取材した内容はビビッドで今でも価値を失っていないように感じた。

 

いまのところ、まだ154/372ページで半分読んでないのだけど、ルポルタージュであるだけに基本的には読みやすい。ただあまりにイデオロギー色の強い「民族教育」の部分はちょっと飛ばし飛ばしにしか読めなかった。日本社会にいてもう半世紀を超える居住者たちが民族性はともかく未だに国籍にこだわり続けているのはやはりちょっと理解しにくく、その辺りは冒頭のにしきのあきらの感覚の方がずっと理解できるものがあった。ただ、在日朝鮮人の世界に関して、焼肉屋とパチンコ屋と言う二大産業についてのルポはすごく面白かった。

 

もともとこの本は韓国軍の起こしたベトナム戦争における虐殺事件について知りたいと思って読み始めたのだけど、まだそこまで行っていないのだが、わずか18年の間に180度変わった日本人の「公式的」な韓国・朝鮮観の変化の方に、より興味深いものを感じたのだった。

 

まだ、雨が降り続いている。

『物語ウクライナの歴史』を読んだ。(3):ウクライナは、思ったよりずっと壮大な歴史を持っていた。

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

 

『物語ウクライナの歴史』読了。書き始めた当初は、(3)としてコサック国家の時代、(4)として帝政ロシアオーストリア帝国の支配下の時代、という具合に書いて行こうと思っていたのだが、そこまで詳しくやっている余裕がなくなってきたので(3)としてひとまとめに書くことにした。

 

しかし現代ウクライナの歴史の上で、16−17世紀のコサック国家と1917-20年頃の独立ウクライナ政権=ウクライナ中央ラーダの存在は大変重要なので、その辺りは明記しておこうと思う。

 

ウクライナの歴史は、思ったよりずっと壮大だった。キエフ・ルーシ時代からリトアニアポーランド支配下の時代をへて、コサック国家の自立からロシア帝国への従属へと続くあたりはある意味牧歌的なのだが、19世紀中頃に産業革命が始まってからは風雲急を告げてきて、第一次世界大戦からロシア革命当時、特に1920年代前半の壮絶なウクライナの土地の奪い合いにはものすごいものがあった。

 

ウクライナ中央ラーダ」は現在のウクライナ国家の祖となる形を作っていて、彼らの定めた国旗、彼らの定めた国歌、彼らの定めた国章が現在でも使われている。

 

ウクライナには残念ながらなかなか英雄と呼べる人材、あるいは求心力を持つ強力な組織を作れる人材が出て来ず、そのために他国の支配下に置かれる時期が長かったような印象を受ける。広大な土地、多様な地域性、複雑な民族構成や様々な国の元での支配(ロシアに支配されていた地域が大きいが、場所によってはオーストリアポーランドチェコハンガリールーマニアなどに支配されていたこともあった。)や他国の強力な影響力に圧倒されることも多かったと言えるだろう。

 

スターリンウクライナにものすごい災厄をもたらした人物だと言えるが、しかし彼の拡張政策で上記のウクライナ人居住地域はソ連支配下のウクライナ社会主義共和国に併合されて行くことになり、ソ連崩壊後はまるまるウクライナのものとなった。棚ぼた的な統一を成し遂げている。

 

現在のクリミアの状況は、ロシアはかねてから狙っていた状況だったのではないかと思うが、歴史的な観点から見てクリミアの支配権がロシアにあるのかウクライナにあるのかの判断は難しい。現況はウクライナだから正当な理由なく現状変更は出来ないというのが国際法上はいえるけれども、クリミアの状況はなかなかはっきりとは伝わって来ず、ロシア側の確立した事実上の実効支配を覆すのも難しい状況だと言えそうだ。

 

ウクライナは広大な黒土地帯であることから広い面積の肥沃な農地を持ち、ヨーロッパの穀倉地帯であるとともに石炭や鉄鉱石などの資源にも恵まれ、であるからこそソ連・ロシアに取っての生命線であったわけだ。そのウクライナがEUに取られるということはロシアに取っての死活問題だ。そしてそれ以上に軍事的拠点であるクリミアがEU側に取られることはなんとしてでも避けなければならないと言う判断もあったのだろう。

 

この本で印象に残ったことのうちの一つは、ロシア革命後のウクライナ、特にキエフをめぐる激しい争奪戦で、キエフの支配者は第一次大戦末期からボリシェビキの支配確立までのこの期間に14回も交代したのだと言う。帝政ロシアが崩壊したあとケレンスキーの臨時政府、ボリシェビキポーランド、ドイツ、ウクライナ中央ラーダ、コサック国家=ヘトマン国家を名乗る政権、などだ。

 

もう一つ印象に残ったのは先にも書いたがスターリンのもたらした災厄だ。スターリン民族主義を徹底的に弾圧したが、その主要な標的はウクライナだった。

 

スターリンは「民族問題とは農民問題である」という言葉を残しているが、その言葉通り、ウクライナ民族主義の温床とも言える農民たちを集団化することで土地から切り離した。これは徹底して行われたために、農業生産がかなり落ち込んだ。しかしウクライナから移出される穀物の量は変わらなかったため、1933年前後に大飢饉が起こり、穀倉地帯のウクライナで350万人が餓死したのだと言う。この時期もソ連は穀物輸出を続けており、これはスターリンによる意図的なジェノサイドだったと言う見解もあるのだという。

 

また1930年代には激しい粛清が行われ、ウクライナ共産党員の37%にあたる17万人が粛清されたと言う。タタール人がクリミア半島から追放されたのもこの時期だ。

 

クリミアの歴史を一言で言うと、「豊かな土地に住む人々の苦難の歴史」ということになると思う。それは1986年のチェルノブイリ事故まで続いている。そして自治と独立を求める被抑圧民族としてのウクライナにあって、その時々の歴史の主人公というのはやはり「ウクライナの独立」を求めて戦った人、ということになる。

 

ポーランドの支配下でコサック国家の自立のために戦った16世紀のフメリニツキー。彼はポーランドから自立しながら、モスクワ公国の保護をあおいだために、それ以後のウクライナのロシアへの従属を決定づけることになった。

 

ピョートル大帝の時代のマゼッパ。ピョートルの腹心でありながらウクライナの独立を目指して大北方戦争スウェーデンの側につき、結局独立を勝ち取れなかった。

 

19世紀ウクライナ最大の文学者と言われるシェフチェンコ。文学語としてのウクライナ語の確立に尽くした。

 

それから中央ラーダの指導者、フルシェフスキーと軍事面の指導者ペトリューラ。指導者として印象に残る人々はこうした人々だ。

 

プーシキンを読んでいて印象に残るのはロシアの土地の広大さだが、ウクライナも同様に茫漠とした広さを持っている感じがする。国土の面積はヨーロッパのどの国よりも広く、人口はフランスに匹敵する。そしてどこに国境があるのかわからない漠然とした国土の広がり。こういう国が近代国家としてのまとまりを持って行くことは難しいだろうなあという感じがする。

 

ウクライナの暫定政権はEUよりの立場を取っているが、東部ではロシア系の住民も多い。民族間の対立も先鋭化しているという話もあり、今後どう展開して行くのか予断を許さないところがある。

 

しかしウクライナには、なんと言うか南欧的な明るさのようなものがあって、そこが北方のモスクワの空気とは違うなという感がある。

 

これからも苦難は続きそうだが、その明るさでこの苦境を乗り切ってほしいものだと思う。